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回折:海よ・2

 その日、庭の隅の水たまりは、腐り果てていた。乾きそうになれば、そのタイミングに合わせたように小雨が降り、くぼみには、確かめたくもない有象無象の生き物の気配があり続けた。


 それに、ちょうど差し込んだ陽が跳ね返り、夕映えの色をたたえる。空にあるものとまったく同じはずなのに、おれにはどうしても許せなかった。なにかが違う。どこかけがらわしい。淀んだ水鏡が、おれの視界に太陽の光をねじ曲げて届けると、胸のあたりが不快にざわつくのだった。


 静けさはものの音を際立たせ、どこからか、こちらへ向かう車の気配を聴覚に拾わせる。おれは、近づいてくる一台をよく知っていた。思った通りの場所で止まり、ドアを開け閉めするのがわかる。


 定刻になると流れてくるメロディーは、ここが都会ではないという証拠ではあったが、人を休息に向かわせるちからを持っていた。


 近くの畑の脇で走る子らは、はたとその動きを止め、遠くを眺めて、それぞれの家路へ就く。さっきより確かに足取りは軽い。かれらの帰る先には、幸福が待っているに違いなかった。


 沈もうとする太陽のひかりが、かれらを染めあげる。自分の影のありかを確かめることもせずに、子ども時代を踊りながら駆け抜けていく。


 おれだって、かれらと同じように、階段を走るように降りたっていいのだ。ただ、ふとガラスに映る自分の顔に、妙な角度で入り込んだ贋の太陽がつくる不自然な影が、あるはずのない年輪を描き加えるのを見た。


 いつか数十年後に刻まれるであろう、しわ。どこか疲れたような表情。それは、石倉邸の大広間に掲げられた歴代当主たちの肖像のどれかに、そっくりそのままであった気がする……。


 階下から呼ぶ声を待って、下りていく。出くわしたのは香りの航跡シヤージュ。久々に、石倉の人間が殊に愛する類のものを感じた。それでも、いつかの日識った、高貴さには及ばない。


 新婚旅行から戻ったとき、まとっていたもののはずなのに、なぜかしらそこに奥ゆかしさがない。


 居間のほうへ歩くにつれ、香りのボリュームも上がっていく。


 そこには、思ったとおりの人がいた。真正面の上座には新聞を広げたままの加瀬老人。そのすぐ脇には、加瀬かせ(ふひと)の姿があった。


 これまで、ろくろくセットもしていなかった髪は、しっかりと油性のものでまとめられ、険しい表情には、石倉家の血が色濃く浮かび上がっていた。


 閉められた縁側のサッシを風が強く叩く。寒い季節。空は太陽と離れたところから闇色になっている。


「ごきげんよう、史さん」


 加瀬は横目でじろりとこちらを見た。


 外で冷たく輝く星が視界をかすめる。


 おれの知る男ではない。あの日、ひとりぼっちでいたおれを、あたたかな食卓へ誘い出した男ではない。


「この間、海苔の網を張るのには、難儀した。史、なぜ来なかった」


 海に立てられた支柱に、種をつけ、そこに海苔の繁殖するための網をかけていくというのが、おおまかな手順である。老人だけでは手が回らないと、加瀬こそよくわかっていたはずだった。


「それに、どういうことだ。お前は市議と言っていたが、なぜ市長選に出るのだ。この新聞記事を見てみろ!」


 日々の作業で疲れているはずの老人の顔は、赤黒く乾いている。それを、さらに紅潮させたことがすぐにわかるほど、激昂していた。掲げられ、示された新聞を一瞥すると、加瀬は大きくため息をつき、客用の湯呑みを、なんのためらいもなくその手にとった。


 昔からある蛸唐草の、古めかしくも味のあるものが、かれの湯呑みであったのに、老夫人はそれを用いなかった。


 こちらを意に介さぬ素振りで台所に立ち、黙々と家事を続けるうしろ姿は、どこか凄みさえ帯びている。


「市議では間に合わない。そう判断した。周りもそれを強く勧めた。他の者の意見を、素直に取り入れた結果だ」


 老人は新聞を掴んで畳の上に投げつける。どうにもならない。あまりにそれが軽いので、折り目のままに閉じられただけだった。


「政界から引退する、と約束したのではないか。それを反故にするのか。初めは市議といい、次は周りのせいにして市長になるという。この調子で、お前は結局国政に戻る心づもりでいるのだろう。あまりに義がない。そうしたことならなぜ、五百旗頭さんの願いをきいたのだ」


「そんなことを言っていてもどうにもならない。おれを今回こうさせたのは、長一郎だ。あいつが妙な計画を立てなきゃ、穏やかに暮らしていけたんだけどな。前のときは、じいさん、あんたが手を回しておれを引退させたんだったよな。知ってるんだぜ。人生は一回きりだ。今度は、おれは退かないぜ」


「誰がそんなことをお前に吹き込んだ!」


「長一郎さ。ついこの間、施設の説明会に来た時捕まえたんだ。首根っこ掴んで揺さぶったら、白状した。おれと喧嘩をするつもりはない、自分はやる気がないけれど、仕方なく政治をやる羽目になっただけだ、とか言うのでな。その理由は、おれを政治から遠ざけるよう、じいさんから頼まれたからだ、とな」


 老人はがっくりと肩を落とした。


「がたがた言うなよ。協力してもらうぜ。選挙のためのパンフレット作りもある。少し急ぐから、船上で写真の撮影をしたい。もちろん潮の状況だとかもある。一日、二日、ずれる場合もあるから、そのときはよろしく」


 加瀬はそれだけ言うと、立ち上がった。おれのほうへは向き直りもせず、ひと言もないままだった。


 誰も見送らなかった。


 風の音の向こうで、車が遠ざかっていくのがわかった。

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