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淡雪・3

 春だなんだといってみても、こうした日は寒い。雲はその影にそっと暖かさをひそませてくれるが、青空ときたら、すべてを暴いて、容赦なくそのままの冷たさを剥き出しにさせるのだから。


 太陽の姿が見えていたところで、遠すぎて、単にまぶしくて仕方ない。


 現に、人のいないこの場所のガラスまで震えているだろう。


「言いにくいこと、言ってしまおうかな」


 視線がふと、壁の向こうの海から、さなえのほうに移る。


「なんだろう。聞かせてほしいな」


 コーヒーポットは満杯にしてあり、おれたちは、誰もの死角に入り続けている。袖の下で時を刻むものも、めくって確かめなければ、陽の傾き以外、現在を知らせるものもない。


「うまくいっていないんでしょう。お姉さまと」


 カップを持とうとして、止まる動き。


 隣のテーブルの上、角砂糖に満たされた、透明なシュガーポッド。


「単刀直入だな。なに? 彼女からきいたの?」


 こうしたとき漏れてくる、笑いの正体を掴めないまま、カップを覗き込む。波打つ黒い鏡から見つめ返してくるおれ自身が、己を嘲る。


「ほとんど実家にいるのに、うまくいっているとは思えないの。当然でしょう」


 店内の静かな音楽が、寒い風に切り裂かれて、ミュート。自然にかき消された音符の存在の、やり場のなさ……。


「正直に言おうか。あれほどのひとが、なぜわたしを選んだのか、まだわからない。卑下しているのではなくて、純粋な疑問だ。だったら当人に尋ねろ、というかもしれないが、当人だからこそ、口にできない理由だってあるかもしれないだろう」


 目をそらしたのはおれのほうで、見つめ続けているのはさなえだった。言ってしまった後の気まずさを、コーヒーで流し込む。


「本当のところなんて、お姉さま自身だってわからないかもしれない。石倉さんは、傍目八目(おかめはちもく)を待っているのね」


 喉元過ぎて、胸の近くが熱い。エスプレッソでもないはずなのに、口の中はひどく苦い。そうした具合のコーヒーなのだ。誰の好みでこうなったかわからない。あのスタッフだろうか。黙りこくって、にこりともしない。かれはいつもそうなのか。いや、かれだって、気を遣って、結果として、無愛想になっているのかもしれないのだし……。


「石倉さんは、どうしたいの」


 はたとさなえの顔を見上げるかたちになって、うつむいていたことに気づいた。


「あ……」


 言葉が続かない。


 少し離れたところに掲げられたボード。そこにはたくさんの料理名が記されてあった。波の穏やかな日などには、たくさんの人がここへ来て、めいめい、好みのものを自分で選んでいるのだ。


 おれは今日、ここで、既に注文されていたものを口に運んだだけだった。


 よくよく考えてみればそうしたものだ。熱くないもの、辛すぎないもの。消去法で残ったものが供されるのを待つばかり。


 昔からずっとそうだった。もちろん違ったときもあるが、結果はいつも同じだった。いろいろなものに対して無関心に振る舞うことで、問題そのものがまるで初めからなかったかのように感じられた。そうした嫌な心の舵取りを始めたのは、いつの頃からだったろう。


 雲が動く。光の角度が変わる。影絵が心に落ちてくる。おれを取り囲む。あるはずのない空間が眼前に描かれて、おれがフィクションになる。同じ場所。まだここが石倉家の所有で別荘めいた様子だったとき、同じように、陽が差してこなかったか。


 浮桟橋につけられたクルーザー。ワインボトルを手に降りてきた男は……。それを受け取る女は……。両親だ。弟が生まれる前、跡取りとしての立場が安泰そのものだった頃。おれはちょうどこの角度から外を見ていた。


 取り残されていた昔の自分の影に現実を重ね、あの時の、凪の海をまぢかに幻視した。


「あのひとの望む通りにしたい、と言ってしまったら、まるで逃げているようなものだね。よしんば、本心だったとしても」


 どこか困ったような微笑みを正面にして、自分を取り繕うのが哀しくなった。もう、さなえはおれの敵ではないと、わかりきっているのに。


「縁あって夫婦になったのだから、仲良くやっていきたいとわたしは思っている。けれど、もしもあのひとが本当に望んだことでなかったとしたら、どうするべきなんだろう」


 イヤリングが揺れて、淡い照明を反射した。さなえの唇はかたく結ばれていたはずだが、少しだけ動いた。そしてすぐに元通りになった。


「言うに言えないことって、あるものだよ。まして、結婚前のことをとやかく、なんてつもりもないよ。ただね。道を間違えたなら、引き返したっていいんだ。誰に遠慮もいらない。自分に嘘をつくというのだけは、見るのも嫌なのさ」


 荒れた海。出港する船もなく風がうたう。どこかで重く、衝突音がする。波は低く呻きながら、係留された小型の船をくまなく愛撫する。


 秘めやかなはずの交歓は、海では白昼堂々と、そこかしこで、はばかりなく行われている。


「自分の思う道を選ぼうともしない、というのが、本当に、石倉さんはお嫌いなのね。会社のトップともなれば、不自由なことばかりで、反動でしょうね、却って他人を思い通りにしたくなるようなむきの人が多いものだけれど」


「いろんなことが順調になると、なんでも自分の思い通りになって当然だ、と勘違いしてしまうのだと思っていた。ただ、さなえちゃんが言うように、他の不自由さが、そうさせているむきもあるかもしれないね」


 クルーザーから降りてきたときの猛には、なにがあった?


 若い輝きが?


 それをはぎ取ったのは、どうした理由なのだ?


「……許せないんだよ。わけのわからない理不尽を飲ませる奴も、臆病さから、いやいや飲む奴も。そうした妙なものは、概ね、金やもっと大きな権力で解決できる。自分の幸福をつかみたい、と本当に願っているにもかかわらず、変な力関係に悩まされている人がいたら、いつだって協力したいと思っているよ」


 猛の怒り狂った表情が、記憶の奥底から浮かび上がる。かれはなにに憤っていたのだ。


「いまのようなポジションに就いた理由は、そのあたりにある。社長業などは、ほんとうのところ、どうだっていい」


 驚いたような眼差しで、さなえはおれを見ている。


「なに不自由ない、御曹司らしからぬお話ね。どうしてそうしたことまで気が回るの」


 ふと息をつき、水を飲んだ。目には見えぬ海の気配が間近にある。


「子どもの頃、一度、石倉の家はだめになってしまってね。その証拠に、ここが人手に渡っているだろう。決してわたしの人生は順風満帆だったとはいえないよ。ほとんど今日のような、時化(しけ)の日ばかりさ。海に出ていたら、船酔いをしなくなるのではなくて、慣れてくる。そんなものだよ」


「そうだったの。お姉さまそのことご存知?」


 スタッフは完全に奥へ引っ込んでいるようだった。物音ひとつしない。入り口にはクローズの札が掲げられている。


「知っているかどうかもわからない。わたしが、自分から、昔のことを話した覚えはないな」


「きっとこんなふうに話をしていたら、あんなに、お姉さまも実家にばかりはいないでしょうね。もう少し、お姉さまは歩み寄るべきだと思うの。そうしたらきっと、二人とも、とても幸せになれそう」


「その努力を怠った、わたしの至らなさが問題だ。さなえちゃんたちを見習って、困難に、二人で立ち向かっていけるようにならなくてはね」


 さなえは、にこりと笑う。


 おれはうなずき、ゆっくりとまばたきをする。


 もうそこに、猛はいない。


 輝く太陽の円のかたちが、まぶたの裏にくっきりと描かれるのを、たしかにとらえた。

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