淡雪・2
海はまだ冬の貌。
季節はずれで、人のいないライブハウスにも見えるここは、マリーナと併せて設けられたレストラン。貸切の札などなくとも、この時化の折には誰も来はしない。
港の表情をうかがいながらドアを引くと、突風が音をたてた。おれは弾かれるようにして一歩退く。重いガラスのドアは、おれの指を仕留め損ねて、前後に揺れている。
間接照明で、どこか薄暗い店内からゆらりと現れた人影は、ちょうど海の見えるあたりを示した。
曲がり角でもなければ、個室でもない。そんなところに、五百旗頭さなえはいた。
「ずいぶん、賑やかなところだね」
さなえは、強張った表情を崩した。
「誰も、今日、ここが開いているとは思わないでしょう」
旗は時折ちぎれそうになりながら、寒空の下に立ち、満ち込んでくる波のしぶきを受けたり、受けなかったり。
「ランチはメニューが一つしかないの。頼んでおいたけれど、いいでしょう」
無愛想な男の店員一人で、ここを切り盛りしているのか。美しく透き通ったグラスと、カラフェいっぱいの水をそばに置いて、立ち去った。
雲の隙間からこぼれる、黄味がかった太陽の光が、年月の通り過ぎた痕を輝きで埋める。
「古くなったものだね。ヤマナカ・ハーバーのとき、建て替えたのだろうけれど」
誰もいないウッドデッキの向こうに、天体と建物の作る影が、二人連れのかたちに似て落ちる。
「東さんが、一念発起して事業を興すもとになった場所だと聞いた。とても大切にしていらっしゃるご様子だったよ」
さなえはおれをまっすぐに見た。五百旗頭屋敷のときのように、訝る瞳の色は、もうない。
「ここが、破格の条件で手に入るなんて、すごいお話。翔太郎さんのお父さまは、とても運の良いかただと思ったわ」
おれはこの場所からの眺めを、本当は、知っていたはずだった。けれども、様変わりした海沿いの街並みは、初めて見るのと同じでしかなかった。
ここにはいつかあった遠い日も、潮風がどこかへ吹き飛ばしてしまったらしい。パーマをしっかりとかけ直した自分の顔が、グラスの内側からおれを見つめ返してくる。
やがて料理は申し訳のコース仕立てで、適当にそこらに置かれていった。
もう給仕には来ないという、武骨だが気遣いのあるやりかただった。
「ここに来たことがあるの? 少しわかりにくいところだから、すんなりとはいかないと思っていた」
さなえの問いかけに含みはない。おれは口を軽く拭って、ペーパーを内側に折りたたんだ。
そばの座席へ無造作に掛けたコートの裏地には、波の地模様があしらってあり、ちょうど眼前の海と同じ表情。
「本当は、ここは石倉家の別荘みたいなところだったのでね。とても小さい頃、連れられて来たことがある」
さなえは驚いている。
「手放したの? こんな良いところを?」
ここは申し分のない立地だった。特に、時間が経つほど利のある、そうしたところだった。だからこそ、ずっと以前から押さえていたのだ。
「わたしの父が、そうしたのでね……」
首を振ってみせると、さなえはそれ以上追わず、食事を続けた。
「さなえちゃんはここに、翔太郎くんと?」
静かに、音楽が流れていることに気づいた。
「ここでかれと出会ったの。実は、結構まえから、お互いのことは知っていて」
カトラリーを動かす。おれは、微笑みが自然と浮かび上がってくるこのひとときを、噛みしめるのだった。
「はて。きみは船を乗りこなす趣味があったかね?」
「いいえ。姉たちと、時々遊びに来ていたの」
「それで、散々おいしいものを食べて、楽しく過ごしていたわけだね」
さなえは笑った。
「しかしね、眞波がきみたちのことを早く言ってくれていたら、悩まなくてもよかっただろうに」
「姉は……言いにくかったのかも」
「なぜだろう? もしかしたら知っていたのかな? ここが元は石倉のものだったとか? 話した覚えはないんだがなあ」
風はあるものの、空は次第に曇りの領域を減じていき、淡い青が視界に多く現れ始めた。
「わたしね、ずっと誤解していた」
「なにを?」
「石倉さんのこと。てっきり、わたしたちの縁談にいい顔しないと思っていたから。この間の会食のとき、もっと早く言えばよかったな、と」
おれは、さなえのグラスに水を注ぎ足した。慌てて向こうが手を添える。
「当人同士の心が通わぬ、政略結婚というのが、心底嫌いでね。仕方がないからと、すぐに折れてしまったり、他の人のためだとか理由をつけては、尊い犠牲者のふりをしたりするのが、どうにも気に食わない。なぜ、命がけで自分の人生を選び取ろうとしないのか、と腹が立つ……。でも、きみたちはそうではないとわかった。それどころか、今の話を聞いて、もっともっと幸せになってほしいと思ったね」
さなえは下を向いたが、表情は明るい。
「どうして皆、石倉さんが気持ちの優しいかただと、わかろうとしないのかしら。わたしもそう思い込んでいたから、他人のことは言えないけれど」
「おいおい、おだてたって、なにも出ないよ」
おれは水を口に流し込む。その必要もないのに。
「わたしたちのことを応援してくださって、ありがとう。どうしても伝えたかったの。誤解していてごめんなさい」
まっすぐにさなえの目を見つめ、そして、うなずく。
料理そのものは決して超一流とはいえなかった。また望むべくもなかった。けれども、ゆっくりと味わうには充分だった。




