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淡雪・1

 遅い夜明けの闇の地色に、ぽつりぽつりと浮かび上がる白。


 都会に林立するビル群は、その露わになった幹のあちこちに、細雪を花とたたえて、おれの前に広がっていた。


 孤独の塔から平野を見下ろすとき、頑丈なガラスがおれをゆがめてとらえ、過ぎ去った時が間違えたように現れる。


 寒い窓辺で飲むコーヒーは、おれを温めるには至らない。そもそもの猫舌のせいで、冷ましきっていなければ受け付けないからだ。


 明かりを落としたままのダイニングをそっと覗き込んでも、なんの望みもなく、静かなままだ。片付けられずにいるオレンジのエプロンとミトンは、触れてもきっと冷たい。


 明るすぎると、スクリーンに映したはずのものがしっかり見えない。だからおれは、淡い闇をわざと作ったままにして、いつまでもそこに、わずかな思い出を投げかけている。


 時計の針が回り続けてもたらしたものは、次第にぼやけていく記憶だった。日に日に、あの弾けるような若さがかすんでいき、肌の感触がどうであったか、もうおれの体にも手ごたえは残っていない。


 そしておれはドアを閉める。次、またここを開くとき、望んだ通りになっていることを願いながら。


 いつだってこの繰り返し。おれは都会に隠れてひとり、狭い箱の中。直通のエレベーターは誰の目にも触れず、いざとなれば頼みの綱は緊急通報用のボタンだけ。扉ひとつ自分の自由にはならない。だから、せめて、次元を往来する夢を見ようとする。いつか、真夏の陽炎にゆがむ先のどこかへ行きたいと願ったように。そしてただ一度だけ、その先へ行けたと思ってしまったがために。叶えられた願いが、おれの呪縛になる。


 エントランスはいつも通りで、誰かを避けて進めば、地下の車寄。暗がりと、偽の太陽色をした明かり。不自然な光が、おれの顔に、失敗した絵画のような影を作る。


 暗がりのなかで、一人きりを邪魔する一台をみとめて立ち止まる。よくある黒塗りだ。


 近づいて知らぬ顔をすればいい。うつむくおれに、注がれる視線の気配。


「おはようございます」


 はた、と顔をあげてしまった。


 視線の先にいたのは、石倉海運の運転手であった。


 風の巻く音がする。降り込む雪の勢いははかない。


 不意打ちのような迎え。乗り込んで尋ねる。


「どなたからの手配で、ここへ?」


「昨夜、常務のお帰りの際、急なことではあるけれど、社長のご自宅に直接、朝のお迎えにあがってほしいと」


「自宅に、と雄浦常務は」


「はい。カーナビに入っている社長のご自宅へ、と。秘書室には、社長を会社へお送りしてから伝えればいいからと」


 おれはこのマンションの存在を、秘書室に知らせたことはなかった。ただ一度、どうしても動きなくなかったときにんだだけだ。それも、自宅とは伝えていない。


「わたしの自宅はここだと、ずいぶん前から登録してあったのですか」


「はい。少なくともこの車が車庫にきた時点では、もう入っていました」


「他の住所での登録はなかったのですね」


「ありません」


 空と川の水面は同じ、暗い彩り。


 誰がここをおれの自宅ととらえるのか。


 会社には、郊外の戸建てのほうしか教えていないにもかかわらず……。


 役員の自宅データなどの情報は、秘書室長の三好しか知り得ない。三好は、極めてプライベートな場所であるこのマンションの存在を、どうやって把握したのだろう?


 窓の外では、寒風に雪が力なく翻弄されていた。あまりに弱々しく、その白い姿を保ち続けることもできず、空中ではらりと散って消える。地面に届くころには、冷たい水滴になって淡い跡を残すばかり。


 すぐに着いた会社。降りて歩くとき、どこかから入り込んだ雪のかけらが、肩の上で溶けた。おれはそのあたりをおさえて、はかないものの命を、人知れず愛おしんだ。


 黙りこくったままのさよならは、誰にも聞こえるはずはない。背中の向こうに淡雪は降りしきる。振り向くその一瞬、鈍色の空に、凍った嘆きをみとめた。


 社長室の中は寒々としている。ブラインドを開け、冬らしい風景をそっと見やったあと、パソコンを立ち上げるのだった。


 真っ黒な画面にふとよぎる影は、自分のものなのに、なぜかしら違う気がする。


 しばらくすると、ノックの後、秘書室長の三好がやってきた。おれと変わらぬか少し年上のかれは、あまり感情を露わにしない男だった。


 予定の急な変更……こうしたことがあっても、一切動じず、手ごたえもない。


 どうあがいても、すべての動きを把握できているものには、社長であっても敵わないところがある。


「三好さん。会社に入る前、どこかでお会いしたことはありませんか」


 三好は視点を一つのところに定め、黙り込んだ。長いまばたきの後、そっけない答えが返ってきた。


「記憶にないのに、そんなことをおっしゃって、どうなさるんです」


 確かにその通りだ。


「やはり口説き文句としてはありきたりかな」


 かまをかけるのに失敗した。笑って流そうとした。失礼します、のひと言で済まされると思った。


 ところが、三好は、じっとおれの目をのぞき込んで、次の言葉を待っているような構えだ。


 きれいだが、整えられすぎていない髪。ありふれた風貌には、少し、品の良さがある。


 加えて、静かな押し出しの良さが、かれを秘書室長というポジションに据えさせる要因となった。


 ただ、おれには、かれがどういうかたちでこの石倉海運へ入ることになったか、いまだによくわからないのである。眞波まなみの役員就任の際、外部から引っ張ってきたというのだけは覚えている。それも、眞波の父からの指示ではなかったか……。


「冗談。冗談ですよ。三好さん。今日の午後ちょっと外に出て、それから直帰しますから、車を一台押さえておいてください」


「わかりました。失礼いたします」


 踵を返すとき、かれはバランスを崩し、転んだ。手元の書類を落とすまいとして、妙な体勢になったせいだ。


 翻ったネクタイの、大剣の裏。ブランド名が明らかになる。おれが普段好みで用いているものの、セカンドラインだった。


 派手に足をくじいたらしい。しゃがみ込んだまま立てずにいる。おれは近づいていき、大丈夫ですか、と足元を確かめた。そこで、はたと気づく。かれの靴もまた、おれの愛用するブランドの、グレードを少し落とした品だったのだ。


「病院へ行ってください。救急車は……? そこまではない? では、今からわたしが運転手さんに連絡しますから、動かないで」


「すみません……」


 ひどく痛むのだろう。顔面は蒼白になっている。


 内線をかけ終えると、おれは三好に肩を貸し、秘書室まで連れて行った。


「業務命令です。これをきっかけに少し養生してください。あなたは働きすぎです」


 運転手に連れられるまで、おれはそばを離れなかった。


「しばらく秘書室長が不在かもしれませんが、皆さん、なんとか、よろしく頼みます」


 そのときには、おれを見る秘書室の女性たちの目が、今までとは違っていた。


 いまだに止まぬ雪は、勢いを強めている。かなたの暗雲が昼を覆い隠し、時のありかを、空の表情にあらわすのを許そうとしなかった。

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