回折:蝕・3
比べるものが記憶から薄れていくのは、おれにとっては幸福のひとつだった。初めには狭く感じたあの家も、今ではそうでもなかった。
「ただいま」
敷居をまたぎ、そのように声をかけると、いつだって加瀬老人は満面の笑みを向けてくれる。
頻繁に皆でこの家を訪れるのが通例だが、今回は違っていた。加瀬とおれだけなのである。
それぞれの前に置かれたのは、やはり以前のままの湯呑みだった。
おれのものにだけ、冷たい飲み物が入っている。気づいて老夫人の顔を見る。そこには温かみがあった。冷めるまで、ひとりきり、待たなくとも良いのだ。
「今度、出馬する」
加瀬老人はその表情から笑みを消した。
ぬるんだ風が庭の木の枝を揺らす。
まだ沈まぬ夕刻の陽が差し込み、船を浮かべるさまを描いた掛け軸に、赤い水面を描き添える。葉の影がそこに波を作り、輝きが船にまっすぐ当たって、露出過多のなかに沈んだ。
「それは約束を破ることにならないか」
「国政ならば、その謗りもあるだろう。けれど地元市議としてだ。もうすでに、反対運動の皆がレールを敷いている。議員にならなければできないこともある」
「しかし、政界から退くというのが……」
加瀬老人はいつになく険しい表情で、反論を続ける。
「長一郎はもう見込みがない。連続で落ちて、癖がついたといって、党からの公認を取り消された。あいつが、まだ、上がる目もあるならともかく。近々、やつの親父から引導を渡されるだろう。その手はずは、森社長につけてもらう確約が取れた」
きっぱりと言い切った加瀬は、老人と目を合わせず、湯呑みに口をつけた。
「おれは反対だ。どうにも嫌な感じがする。史よ。今のように穏やかな暮らしこそ、お前が心底望んだものではなかったか。何のためにお前を加瀬のままにしておいたのか……。親の心子知らずとは、よく言ったものよ」
「状況は、昔と今とでは違う」
風の吹く音、葉のざわめきが、かなたの海を波立たせるのがわかる。
干拓で拡げた土地とせめぎあう、水門の向こうの逆巻く水の流れ。その轟々たる音が、今にも間近に聞こえそうで、おれは耳を塞ぎたくもあった。
「おれたちの海を、勝手にさせてはならない」
風はひときわ強く、庭の下草までも揺さぶる。空には陽が照りながらも、わずかに窓を叩く粒の大きな雨。
「おれたちの、とは何だ。海は関係ない。自分の欲を満たす言い訳に、海を使うな」
「そういう話じゃないんだ。それなら、よそ者がやってきて、勝手に荒らしていいのか」
「全体の利に適うことならいいだろう。ただしかし、おれたちの、と変に縄張り意識を持つな。人間の都合に海を合わせるような真似をしては、ろくなことにならん。皆で仲良くするのが、海への礼儀だ」
「あいつらは海をだめにするだけして、飽きたから、と放り出すに決まっている。おれはそんな真似は許さん。誰も許さん」
ここへ至って、はじめて加瀬老人は黙り込み、目を閉じた。
サッシの端のあたりで、雨戸が音をたてている。今更閉めようにも、窓を一旦開ければ、降り込んできて内側まで濡れてしまう。だから、そのままにしておくしかない。外は白く水煙をあげている。
老夫人は皆の前にそれぞれ茶菓子を置き、すすめた。
「ところで。今日の本題は実はそこじゃない」
加瀬の目が光った。水しぶきの音に負けず、よく通る声だった。
「できた。子どもが」
加瀬老夫妻は互いに顔を見合わせた。
「安定期に入る前だから、まだ知らないことにしておいてほしい」
おれにしても初耳だった。
「そこで、良を、この家で面倒をみてほしい」
おれの手から湯呑みが滑り落ちた。
冷たさが服の上から染み込んでくる。
わかっていた。いつかこうした日が来るであろうことは。
それでも加瀬の幸福を願う心だけは、なくしたくなかった。
あの状況から引きずり出し、生涯味わうことのなかったであろう幸せをくれたのは、確かなのだから。
おれは自分のハンカチを取り出した。この小ささで拭き取れないとわかっていても。ハンカチは変色していく。もう元の色には戻らないかもしれない。
すると老人はやにわに立ち上がり、座ったままの加瀬の襟首をつかんだ。
「どういうつもりだ、お前というやつは」
すでにその顔は紅潮している。
「おとうさん……!」
老夫人は悲痛な声をあげ、なだめようとした。雨は通り過ぎていく。横殴りのそれは、次第に勢いを弱め、間近に太陽の出現を控えているのも明らかになった。
「おれは出馬する。妙な疑いの種は、あってはならない。それは良のためでもある。つわりのあいつの世話をさせたくないところもある。きっと気を使いすぎるからね。……じいさん、手を離してくれないか」
「それは本心か! 本心なのか!」
老人は両手で加瀬の襟首を強く掴みなおすと、より激昂して、かれを揺さぶった。
「当たり前だ。良のおくゆかしさは、おれにはわかっている。だから……」
そのとき、はたと老人の動きが止まった。雨が去った後の庭を見て、言葉を失っている。力の抜けたことを悟った加瀬が、ゆっくりとその両手を外させる。
「どうしたっていうんだよ」
庭を見つめたままの老人の視線の先をたどる。
そこには、白い小さな点が緑の中にいくつもあった。
敷地内の竹が、一斉に花をつけていたのだった。




