表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/105

回折:蝕・3

 比べるものが記憶から薄れていくのは、おれにとっては幸福のひとつだった。初めには狭く感じたあの家も、今ではそうでもなかった。


「ただいま」


 敷居をまたぎ、そのように声をかけると、いつだって加瀬老人は満面の笑みを向けてくれる。


 頻繁に皆でこの家を訪れるのが通例だが、今回は違っていた。加瀬とおれだけなのである。


 それぞれの前に置かれたのは、やはり以前のままの湯呑みだった。


 おれのものにだけ、冷たい飲み物が入っている。気づいて老夫人の顔を見る。そこには温かみがあった。冷めるまで、ひとりきり、待たなくとも良いのだ。


「今度、出馬する」


 加瀬老人はその表情から笑みを消した。


 ぬるんだ風が庭の木の枝を揺らす。


 まだ沈まぬ夕刻の陽が差し込み、船を浮かべるさまを描いた掛け軸に、赤い水面を描き添える。葉の影がそこに波を作り、輝きが船にまっすぐ当たって、露出過多のなかに沈んだ。


「それは約束を破ることにならないか」


「国政ならば、そのそしりもあるだろう。けれど地元市議としてだ。もうすでに、反対運動の皆がレールを敷いている。議員にならなければできないこともある」


「しかし、政界から退くというのが……」


 加瀬老人はいつになく険しい表情で、反論を続ける。


「長一郎はもう見込みがない。連続で落ちて、癖がついたといって、党からの公認を取り消された。あいつが、まだ、上がる目もあるならともかく。近々、やつの親父から引導を渡されるだろう。その手はずは、森社長につけてもらう確約が取れた」


 きっぱりと言い切った加瀬は、老人と目を合わせず、湯呑みに口をつけた。


「おれは反対だ。どうにも嫌な感じがする。ふひとよ。今のように穏やかな暮らしこそ、お前が心底望んだものではなかったか。何のためにお前を加瀬のままにしておいたのか……。親の心子知らずとは、よく言ったものよ」


「状況は、昔と今とでは違う」


 風の吹く音、葉のざわめきが、かなたの海を波立たせるのがわかる。


 干拓で拡げた土地とせめぎあう、水門の向こうの逆巻く水の流れ。その轟々たる音が、今にも間近に聞こえそうで、おれは耳を塞ぎたくもあった。


「おれたちの海を、勝手にさせてはならない」


 風はひときわ強く、庭の下草までも揺さぶる。空には陽が照りながらも、わずかに窓を叩く粒の大きな雨。


「おれたちの、とは何だ。海は関係ない。自分の欲を満たす言い訳に、海を使うな」


「そういう話じゃないんだ。それなら、よそ者がやってきて、勝手に荒らしていいのか」


「全体の利に適うことならいいだろう。ただしかし、おれたちの、と変に縄張り意識を持つな。人間の都合に海を合わせるような真似をしては、ろくなことにならん。皆で仲良くするのが、海への礼儀だ」


「あいつらは海をだめにするだけして、飽きたから、と放り出すに決まっている。おれはそんな真似は許さん。誰も許さん」


 ここへ至って、はじめて加瀬老人は黙り込み、目を閉じた。


 サッシの端のあたりで、雨戸が音をたてている。今更閉めようにも、窓を一旦開ければ、降り込んできて内側まで濡れてしまう。だから、そのままにしておくしかない。外は白く水煙をあげている。


 老夫人は皆の前にそれぞれ茶菓子を置き、すすめた。


「ところで。今日の本題は実はそこじゃない」


 加瀬の目が光った。水しぶきの音に負けず、よく通る声だった。


「できた。子どもが」


 加瀬老夫妻は互いに顔を見合わせた。


「安定期に入る前だから、まだ知らないことにしておいてほしい」


 おれにしても初耳だった。


「そこで、良を、この家で面倒をみてほしい」


 おれの手から湯呑みが滑り落ちた。


 冷たさが服の上から染み込んでくる。


 わかっていた。いつかこうした日が来るであろうことは。


 それでも加瀬の幸福を願う心だけは、なくしたくなかった。


 あの状況から引きずり出し、生涯味わうことのなかったであろう幸せをくれたのは、確かなのだから。


 おれは自分のハンカチを取り出した。この小ささで拭き取れないとわかっていても。ハンカチは変色していく。もう元の色には戻らないかもしれない。


 すると老人はやにわに立ち上がり、座ったままの加瀬の襟首をつかんだ。


「どういうつもりだ、お前というやつは」


 すでにその顔は紅潮している。


「おとうさん……!」


 老夫人は悲痛な声をあげ、なだめようとした。雨は通り過ぎていく。横殴りのそれは、次第に勢いを弱め、間近に太陽の出現を控えているのも明らかになった。


「おれは出馬する。妙な疑いの種は、あってはならない。それは良のためでもある。つわりのあいつの世話をさせたくないところもある。きっと気を使いすぎるからね。……じいさん、手を離してくれないか」


「それは本心か! 本心なのか!」


 老人は両手で加瀬の襟首を強く掴みなおすと、より激昂して、かれを揺さぶった。


「当たり前だ。良のおくゆかしさは、おれにはわかっている。だから……」


 そのとき、はたと老人の動きが止まった。雨が去った後の庭を見て、言葉を失っている。力の抜けたことを悟った加瀬が、ゆっくりとその両手を外させる。


「どうしたっていうんだよ」


 庭を見つめたままの老人の視線の先をたどる。


 そこには、白い小さな点が緑の中にいくつもあった。


 敷地内の竹が、一斉に花をつけていたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ