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回折:蝕・2

 テーブルの中ほどに近いあたりのウォーターカラフェ。厚いガラスと水が、周りを歪めて小さな海をかたちどる。


 テーブルクロスにかすかな瓶覗かめのぞき色を加えて、凪の水面。ガラスの表面でいびつになる加瀬と森は、さながら、沖合を行く船。おれは港でそれを眺める人か。


 シャンデリアの光は真昼の太陽に似て、カトラリーに跳ね返る輝きとあわせれば、金波銀波。


 さっきみとめた、ビル群の向こうのわずかな海の切れ端を思い浮かべ、心を運河にして、記憶の上に重ねて観る。


「良くん。今、加瀬先生のお宅にいらっしゃるそうですけれど、毎日、皆様と仲良くお過ごしですか」


 たたずむ場所は違っていても、森は、あの別棟にいたときと同じように語りかけてくれる。


 道端で出くわした山中の横柄な物言いをちらりと思い出し、まばたきの間に忘れようと試みる。立場が違えばああまで出方を変えるものなのか。しかし、かれは、かれなりの正直さで生きているだけなのだ……。


「ぼくが初めて参りましたそのときには、加瀬のおじいさまが、周りのかたがたと一緒に、船に旗を掲げて歓迎してくださいました。本当におやさしく、ありがたいことでありました」


「それは何より。けれども、周りの様子も、お屋敷のときとはずいぶん違うでしょう?」


 おれは自分の表情から笑みがこぼれるのをさとった。


「海が……すぐそばにあるのです」


 森の手元のカトラリーは、中断を表している。


「どういうふうにお思いになった? 聞かせて」


「ぼくは、それまで、海というものをしっかりと見たことがありませんでした。そばを通ることもほとんどなくて」


 うなずく森の手元が動き、皿の端のソースに肉の一片をうまく絡めてその口へ運ぶ。そして、優しげなまなざしを投げかけてくる。


「石倉の屋敷にいる頃は、山の向こうから勝手に一日が始まって、平野の突き当たりの山で、一日が消えてしまっていました。終わらないのです。ずっと同じ一日に閉じ込められているような気持ちでした。けれども、ほんとうに、一日の終わりを見つけられたら、新しい日が来るような気がして。歩いて、いくら追いかけても、追いつかなくて……それでも、歩かざるを得ませんでした。道のある限り、ぼくは休めなかったのです。休むことは、なんにせよ、許されていなかったので」


 真昼の平野に追い詰められた帰りに見た、いつかの一本道の、陽炎のかなたにゆらめいていたのは、加瀬の家だったのかもしれない。決してたどり着けないと思っていたどこかへ、もし、すでにやって来ていたのだとしたら……。


「でも、ここには海がありました。もう、歩かなくていいのです」


 うつむき加減の加瀬の表情は、いまのおれからは見えない。


「そうするうちに、陽が沈むのを見ました。すると、何もかもが真っ赤になって。海も陸もぼくも、みな、境目をなくして。まるきりとけてしまって……」


 森が傾けたグラスの中身が夕陽色に輝く。水面をわたり、陸へ至るあの彩りだ。一日の終わりを知らせる、やすらぎの色がみえる。


「海が好きなのですね」


「はい。いつまでも海のそばにいたいと思っています」


「では、ゆくゆくは、海のお仕事をなさりたい?」


 うなずくように顎を引けば否定にはならない。


「悲しいかな、ぼくには、もしかすると、海の上で働くだけの能力が足りないような気がします。ほんとうは、なんだっていいから、離れたくないのです。けれども、どんなに好きでも、海には、ぼくは、受け入れられないのかもしれません……」


「自分自身が海の上で働く、ということが、そのまま、受け入れられた証明とは限りませんよ。よく考えてごらんなさい。海の神様のお社は、陸にあるでしょう。どこかから、必ず見ておいでですよ。あなたの、海を愛する心をね」


 森は、深くうなずいてみせる。


「あなたは負けなかった。びくともしなかった。まして滅ぼすことなど、到底出来はしなかった。それを世の中に突きつけてやる日がきますよ。いまに、きっとね」


 いつになく強く言い切った森は、鋭い光をそのふたつの瞳にたたえて、まっすぐにおれをとらえていた。


 加瀬はといえば、黙ったまま、大きく目を見開き、上背のある体を固まらせてしまった。


 何も言葉を発さず、数秒。


 そのまぶたを閉じるとき、かれの顔にかすかな失意の影が落ちるのを見た。


 視線をそのまま床のほうへやると、ワインボトルのそれが、かれの影に重なり、長い髪をひとつ括りにした女の容貌を思わせた。


 ちょうど、アルバムのなかの、加瀬の母のスナップと同じすがたかたちのようでもあった。

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