回折:蝕・1
都会に降り注ぐ真昼の光。ビル群の連なる中心部ばかりを見ると、東京の一角と思わぬこともない。
ただ、いまだに明るいのはどうしたわけだろう。ここにはきっと夜がないのだ。車内のデジタル時計は確かに夕刻を指し、予定通りに目的地に向かっている。
色白だった加瀬の顔も、潮と陽光が彩りを変え、久々に袖を通したであろう、襟の高いシャツの上に、そこはかとない違和感を描き出していた。
慎重すぎるほどのハンドルさばきは、不慣れな土地の真っ只中を行くせいか。話しかけるのもためらわれる。
駐車場にたどり着いたとき、目を閉じて深くため息をつくのを見逃さなかった。ネクタイを締め、上着を羽織る加瀬の表情に、いつものようなゆとりはない。
珍しくひと言も発しない加瀬の跡をついて行った。
扉の先は、この間、五百旗頭長一郎がやってきたところより、格段に洗練された空間であった。
あたり一面を、カンヴァスに見立てた生け花。額に入った絵。どれもこれもが、向かい合うおれの心を高揚させる。美に取り囲まれて、絨毯に落ちる淡い影が、石倉邸にいたときと同じ色味になる。
うっとりと見とれていると、少し離れたところへ行っていた加瀬が、手招きした。
明かり採りの窓に、さんさんと降り注ぐ、長い長い昼。おれはそこから、栄えた地方都市の、いまだ伸びゆくさまを眺める。ぐるりと取り囲む螺旋は都市高速で、ひっきりなしに動き回る運命たち。
そのかなたに輝くものを見つける。今までには、知らないところへつながっていく海だ。この真昼の土地を形成する港が、向こう側に、そう遠くないところに控えている……。
「どうした。急げ」
振り向いた先にいたのは、加瀬のはずだった。
暮れやらぬ空からの光が浮き彫りにした遺伝の影が、その輪郭に、思い出したくないひとつの姿を描く。
不快さを示す眉の具合。かすかに歪んだ唇。おれをいじめ抜いた猛は、五月の陽光残る夕刻に、甦り来たのか。
それも瞬きで消し去り、窓枠の配置と、旅の疲れのせいにする。
歩いた先には個室があり、恭しく出迎えるホテルのレストランスタッフに軽く会釈すると、仕切りの向こうに人の気配がした。
先立った加瀬が、頭を深々と下げている。
その相手は森行夫であった。旧石倉邸別棟の煉瓦塀を背景に、爽やかなマリンルックの衣服をまとっていた、あの御曹司が、余裕たっぷりの笑みを見せている。
「良くん。ああ、こんなに大きくなって。それにとても元気そうだ」
おれへ近づき、手を取り、瞳には強い輝き。久々の美と気品と豊かさを目の当たりにして、喜びがおれの頬を緩め、そして、自然に昔通りの振舞をさせる。
「ご無沙汰しております。石倉良です。本日はお招きにあずかりました」
握られたおれの手に力がかかる。感嘆の息を漏らし、目をしっかりと閉じた森は、しばらくうつむき、そのままの姿勢を崩さなかった。
「やはり。どこでどうしていても、あなたは、あなただ……!」
噛み締めるような物言いに潜む、かれの心のうちは、おれでははかりきれない。ただ、目の前の人は、おれの過去からよく知った上で、こうした風に接してくれているのだった。
そばにある陶磁の類の額には、渋い地の色に走る金の模様がある。これは自然には決して存在し得ない。恐るべき美の感覚と技術とが、人間の凄まじい努力をもってして、作品として結実したものだ。このきらめきが、終わらぬ昼の遠い名残を享けて、森とおれの瞳に反射した。
衝立の向こう、さらに奥へ通される。
三人がそれぞれ席につくと、給仕が頃合いをみて、食事や飲み物を運んできた。
カトラリーはしっくりとおれの手に馴染む。ひやりとした銀色のものが、心地よい。
かたや、加瀬にはいつものゆとりがない。今にも脂汗がにじむような様子で、おれはかれの体調を考えたほどだ。しかし、顔色が悪いわけでもない。
「加瀬先生。どうぞおくつろぎください。ご要望がございましたらすぐにお申し付けくださいね」
「いえ、恐れ入ります」
そうは答えたものの、口数少なく、アペリティフを遠慮がちに傾ける。
「ああしたことがあって、ぼくたちもショックでした。あまりにも勝負が早すぎました。あと少し、猛さんが踏みとどまっていてくださったら……できることがあったかもしれませんでしたのに」
「猛には耐えられないことだったのだと思います」
無言のまま、森の目がぎらりと光った。
「その、社長には、お辛いことだったのでしょう」
言い直した後、すぐにグラスの内側を覗くかたちにうつむく。
「それでもよく、正当な跡継ぎをこそ、遺しておいてくださいました。そして、顧問弁護士の加瀬先生に引き取られていたとは。まだまだ、石倉というお家の命運は尽きてなどいない、ということですよ」
森は、言い終える頃、おれへ向き直り、微笑みを投げた。おれがナプキンで口を拭ったあと、グラスに手を伸ばすと、それを優しく見守る。
加瀬に接するときと、おれへのそれは、まるで違っている。あれほど石倉家と近しい付き合いのあった森が、加瀬が何者であるかを知らないはずはない。
「ときに、ご結婚おめでとうございます。頼子さん……奥さまはお元気でいらっしゃいますか」
「何のことです? ぼくはまったく違うところから迎えましたが」
加瀬はグラスを傾けようとして止め、テーブルに戻した。
「そもそもあの騒動のとき、ぼくは海外留学中で、直ぐに動けなかったのです。出来る限り早く様子を見に行きましたが、あまりにも、何もかもが片付き過ぎた後でした。頼子さんとも連絡もつかず、行方も知れないままなのです」
三人とも動けない。おれは山中と橋田の密談を耳にしたが、これは決して口にすべきではない。もし知ったとわかれば、次は……。
「それでは、どうやって、わたしに連絡を」
「山中・橋田氏は、中央でもかなり問題を起こしてまわっているのです。皆、まともなところはどこも相手にしません。そしてついには、五百旗頭の長一郎くんに接近していると知りました。かれら二人は、猛さんを、石倉家をあのような事態に追い込んだ者たちです。ぼくの父が心配して、色々と調査をしました。すると、反対運動の代表者として、先生のお名前を見つけたのです。そこからです」
窓もなく閉じられた空間。ここには時計はない。食事の進み具合から、太陽の居所を推しはかるしか手立てがない。
真実の夜はここへは至らず、シャンデリアがきらめき続け、すべてのものを眩しさで覆い隠してしまう。
このまばゆい美にすっかりと溶けて、自分自身を見失うのも、それはそれで幸福なのかもしれない。
「あっ」
加瀬の手が、カトラリーを落とした。給仕が急いでやって来て、笑顔で対応する。
森の視線が動いて、そして、何もなかったように、食事を続けるのだった。




