回折:春のオベリスク・1
太陽を掲げる空に向かい合う。海と輝く波頭。
あいなかに立つおれはオベリスク。影が示す幸福の時刻。
暖かな日は、みぎわで大海原に夢を浮かべて走らせ、沖を行く船と競わせた。
寒くなれば、海苔漁が始まり、遮るものひとつないところへ漕ぎ出していくのを見送った。
そしてときには、非力ながらもその手伝いなどした。
かなた山かげの向こう、湧き出でた水が長い旅を経て、注ぎ込む海。支柱を立てればそれはゆりかご。大切に保存してあった海苔の種をそのあたりに独特のやり方で蒔く。展開する。
眠っては蘇る、不可思議の生命。
波を受けて、寒さの中、実りをもたらす。そのさまを繰り返し目の当たりにすると、潮の香りが、おれの内に新しい明日を育んでいるかにも思えた。
春先を過ぎると、漁の季節は終わる。海から支柱も抜かれてしまう。使わなくなった網を乾かすため、掛けたものが陸のあちこちに見えたら、初夏の兆し。
ここ数年で、肩より上にあった塀が、目線より下になった。防波堤の先に見える海の割合が増えていよいよまぶしい。
潮目の描く即興の絵は天上への信号で、豊旗雲がたなびいてそれに応える。
このおおらかな青と青との交歓。
おれはその一部に溶け込むような悦びをおぼえる。
「また、海見てる」
声をかけたるみは、中学校の制服を着ていた。
「部活、終わったんだね」
「新入生だから、練習は人一倍がんばらないと」
嬉しそうに見せた楽器のケースには、フルートが入っている。
「お父さんに買ってもらったから、なおさらね」
るみは、中学入学を機に、加瀬姓を名乗るようになった。なんの抵抗もなく受け入れ、自然に、加瀬のことをお父さんと呼んでいる。
「良くんは、部活しないの」
「ずっと前に書道だけはやっていたけど」
「してみたらいいじゃない。部活もあるでしょう」
しずかにおれはかぶりを振り、黙ってしまった。
傾きかけた陽が黄みを帯びる寸前。その日の最後の真昼がるみを飾る。
あたりは春の花、いよいよ伸びゆく芽。何の憂いもなく、幸福の色彩に立つ人を眺める。
おれの後ろに控える、銀の光おびただしい海。光の通わぬ水底に眠る、遠い記憶たち。
表層を揺れる波の往来は、呼び覚ましてはならぬものをなだめ続ける優しい手。逆光のなか、春に向き合いながら、しばし過去を忘れる。
「そうだね、部活どころじゃないよね。もう良くんは高校受験だよね」
二人並んで歩く。その道すがら、海岸に立てられた看板の端に錆をみとめる。
「教育施設建設予定地」……あれきり、何ひとつ進まない、五百旗頭長一郎の学園の話。土地の周囲に巡らされたロープは、朽ちてしまった。
「ぼくは、どこだっていいさ。ゆくゆくは、海苔師になるんだから。そういう科目があればなおいい」
「どうして。進学校も狙えるでしょう。良くん、頭がいいんだから」
「全国を相手にできるほどの能力なんてないし、必要もないから」
海がそこにあった。波の動きを見ているだけで充分だった。まして、いつかこの上を思うまま行き来できるならば、いうことはない。
おれの幸福は遠い夢などではなく、現実にあった。
世界がどこへ向かおうと、見知らぬ外国へ行かずとも、通帳の残高に莫大な額があろうとなかろうと、もはやどうでもよかった。
家に戻ると、加瀬がリビングでくつろいでいた。漁の期間も終わりだ。もうじきかれは弁護士の仕事に専念する。
「良。話がある」
るみは自室へ向かっていった。
加瀬の前におれだけが座る。
「気になってはいるんだが。成績が悪くなっていないか。何かあるのか」
「理由はありませんよ。そもそもぼくは勉強があまり好きではないんです。ついていけなくなってきただけで」
「思うところがあるのか。正直に言ったらどうだ」
加瀬の表情には、どこか悲しみの気配が隠されている。
るみが加瀬の養女として籍に入り、苗字を変えた。もちろんおれもそれを願ったのだが、加瀬は首を縦に振らなかった。あのときと同じ目の色だ。
「とくに、何もありません」
湯呑みに手を伸ばしながら、視線をおれから外す。
「別にここにいるからといって、海苔師にならなきゃいけない、ということはない。なりたいものになるのがいい。良は奥ゆかしいところがある。おれにはそれがわかっている。学費などは心配するな。この家の先行きなど思い悩むな。いいね」
加瀬と妻のあいだに、まだ子どもはいない。もしそのときがきても、かれは決してるみやおれを邪険に扱ったりはしない。おれにはそれがわかっている。
「はい」
「例えば、大学を東京に選ぶときがきたなら、それに相応しい環境を用意できる。そのくらいは、おれにとってなんということもない。だから、わざと成績の悪くなったふりなどはするなよ」
防風林の向こうから海の歌。聞き取れるはずもないのに、何を伝えようとしているのか。
「ところで、覚えているか、森さんのこと。行夫さんといったほうがわかるか」
別棟にやってきていた、あの爽やかな男のことだ。頼子との縁談がもちあがっていた、その件はどうなってしまったのだろう。
「ちょっとした用で話をしたんだ。おれのところに良がいるといったら、ひどく驚いて、また、喜んでいたよ。そのうち、会いに行こうな」
おれはうなずくばかりで、頼子はかれのもとへ嫁いだのかどうか、その場で尋ねることはできなかった。




