閉鎖性水域・3
はじける泡の中、逆さまになった天井の規則正しい四角の連なり。明かりの加減でどこかオレンジに見えたら、おれの郷愁の色。
覗き込むフルートグラス。その外側の曲面に歪む、人、人、人……。
歓談は知り合い同士で固まるばかり。漏れ聞こえる噂話に耳をすませる。
手元のパンフレットをめくっていって調べる、今日の出席者たち。
途中途中に挟む会社名は、いくらイオ学園に寄付したかを、大きさで一目瞭然にされている。そこに、石倉海運の文字はなかった。
「きょうは、どなた様かの名代ですか」
年配の男が声をかけてきた。
「ええ、まあ……予定の者が、急なことで」
軽くうなずいて、男はどこかへ行ってしまった。
上座のあたりには人が集まっていて、到底、近づけそうにもない。あの中心には、長一郎がいるはずなのだ。
「あら……これ、ごらんになりました?」
「どうしました」
「石倉さんの社名がありませんのよ」
「おかしいな。親族だろう? 実際、あの席に奥様がおいでじゃないか、ご出席にもかかわらず、なぜだろう」
「石倉海運? ああ、あれだろう。社長が滅多に出てこない、例の会社。ちょっと人前に出せない類のひとらしいね」
「やっぱりそうなのか。名家のなんのといったって、そういうのは、必ずいるもんなんだな……」
ちょうどおれの目の前で、そうしたやりとりがなされていた。
かれらは少しも、おれが当人であるとは疑ってもいない。それどころか、ここに人がいることも、すっかり忘れているようだ。
こういうとき、気配を消していられる、自分の奇妙な特技に利点を見出すのだった。
女の不自然な表情に、時に逆らう手術の痕。財力で飾りたてた、男のスーツのしわのなさ。どちらも似たようなものだ。
人だかりが、ひとつの大きな生き物のようにうごめく。きらびやかな照明の下で何かを貪っている。それぞれの顔だけははっきり見せて。
明日への野心、媚び、諂い。それらをまとめて食い物にしているのは誰だ。
ここへ人を集めた、長一郎に相違あるまい。利にありつこうと、寄った者どもをまとめて丸呑みにしてしまう。互いを食い殺そうと、たかり、たかってくるものまでを利用する醜悪さ……。
「なに、すねているんだよ。前と同じことをして。こっちに来ればいいじゃないか」
群れから外れて、東知之はおれのもとへやってきた。
手をあげて、上目遣いにうなずいてみせる。
かれらの前で呼びかけられてはまずい。
石倉海運の社長は、無能で人前に出せない、というレッテルを、外すわけにはいかない。これこそが、おれに残された、わずかな自由を担保するものなのだから。
「さ、行こう。ぼくがついてる」
東の手が、おれの手首を掴んで、抵抗する気をおさえつける。
すらりとした長身のうしろ姿が、いつかの加瀬に重なって、おれをどこかへ連れて行く。
あの日、大広間で一睡もせず見つめていたのは、来るはずもないと決め込んでいた遠いあした。このままここにいられはしないのだ、とわかっていながら動けなかった、当主の椅子の上。
大広間から中庭を望む窓の、分厚いカーテンを閉めたまま、過去に引きこもろうとしたおれ。そこから抱え上げたあの両腕が……。
通り抜ける。時間を。人の間を。
そのテーブルへ、意外な取り合わせで現れたものだから、余計に周りはこちらへ視線を移してしまう。
眞波は唇へ傾けたグラスを離し、欣二にいたっては、小さく声をあげた。
「ほんとうに奥ゆかしいものだから、末席で静かに過ごしていましたよ」
あたりの空気はしんと静まりかえって、誰もが何を口にすべきかわからなくなっている。
「ごきげんよう」
何かおかしなところでもあったのだろうか。それとも余程のんきに聞こえたのか。おれの物言いに、つい、さなえが笑ってしまった。それにつられて、翔太郎も、そして欣二まで口もとを緩めた。
「先生。かれをつかまえてきましたよ」
東とおれの顔を交互にくらべるように見て、長一郎が応える。
「知之。かれと面識があるのか」
「ぼくら、友達なんですよ」
長一郎は不可解そうな表情で構えている。
「わざわざ、きみ自身がやってくるなんて……やはり、先生のご活動に、心をつかまれているんじゃないか。何か言いなよ、黙っていては、伝わらないよ」
目を丸くしたまま、こちらへ注意を向けている眞波。
「このたびは、おめでとうございます」
皆が一瞬沈黙したあと、揃って笑いだした。長一郎もこれにはつられたのか、顔を真っ赤にして大笑いした。
「なにかが、めでたいのかもしれんが……ちょっとわたしにはわからん。しかし、まあ、気持ちだけは受け取っておくとするか」
このパーティーは、特段何かを祝うものではなかったようだ。
東も、つなぐ言葉をなくして、どうしたらいいかわからないといった様子だ。
「定期的にあるパーティーなの。留学生たちの成長を皆様に披露して、チャリティーの成果を報告しているといった感じのね。大事だと思ったら顔を出しなさいよ」
眞波はそれだけ言って、グラスの残りを流し込んだ。
もしかすると、こうした様子で、人の輪の中に入っていけば、おれにも新しい道が開けてくるのかもしれない。とっかかりとして、東はその役を買って出てくれたのではないか。
不意に気付く。
遠くで光る、見たことのあるような男の瞳。
背筋に冷たいものを感じる。両脚が脱力するような、独特の恐怖感。
あれは、由花子の父、松野泰ではあるまいか。
一度、五百旗頭の屋敷で顔を合わせただけだ。しかし、駐車場の黄みがかった橙色のランプが染めたあの光景は、なぜだか目に焼きついている。
翻って、自らが秘書として仕えていた議員の息子、蔵人の縁談を潰し、ひとり娘に手を出した男。かれの目にはそう映っているはずだ。
ただ、おれは公の場に出ないとふんで、すべてを内々に隠し通すことに決めたのだろう。欣二もわかっていて触れずにいる。
……この場にとどまっていては、あとが面倒だ。
違う未来への扉は目の前に開いていた。しかしおれは、その先へ行くことができない。いつだってそうだ。こうすればいいとわかっているのに、なにものかが、おれの行く先を強引に捻じ曲げる。
秘書室長が流したであろう情報に、誤りがあった。今日は、それだけでよしとしなくてはならない。
周りに一礼し、そっと離れる。
東が追いかけてこようとしたが、人のさざ波がつくる潮目に隔てられ、進めなくなってしまった。
振り向きざまに見たかれの顔に、少しだけ、悲しそうな色が混じっていた。




