表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/105

閉鎖性水域・3

 はじける泡の中、逆さまになった天井の規則正しい四角の連なり。明かりの加減でどこかオレンジに見えたら、おれの郷愁の色。


 覗き込むフルートグラス。その外側の曲面に歪む、人、人、人……。


 歓談は知り合い同士で固まるばかり。漏れ聞こえる噂話に耳をすませる。


 手元のパンフレットをめくっていって調べる、今日の出席者たち。


 途中途中に挟む会社名は、いくらイオ学園に寄付したかを、大きさで一目瞭然にされている。そこに、石倉海運の文字はなかった。


「きょうは、どなた様かの名代ですか」


 年配の男が声をかけてきた。


「ええ、まあ……予定の者が、急なことで」


 軽くうなずいて、男はどこかへ行ってしまった。


 上座のあたりには人が集まっていて、到底、近づけそうにもない。あの中心には、長一郎がいるはずなのだ。


「あら……これ、ごらんになりました?」


「どうしました」


「石倉さんの社名がありませんのよ」


「おかしいな。親族だろう? 実際、あの席に奥様がおいでじゃないか、ご出席にもかかわらず、なぜだろう」


「石倉海運? ああ、あれだろう。社長が滅多に出てこない、例の会社。ちょっと人前に出せない類のひとらしいね」


「やっぱりそうなのか。名家のなんのといったって、そういうのは、必ずいるもんなんだな……」


 ちょうどおれの目の前で、そうしたやりとりがなされていた。


 かれらは少しも、おれが当人であるとは疑ってもいない。それどころか、ここに人がいることも、すっかり忘れているようだ。


 こういうとき、気配を消していられる、自分の奇妙な特技に利点を見出すのだった。


 女の不自然な表情に、時に逆らう手術の痕。財力で飾りたてた、男のスーツのしわのなさ。どちらも似たようなものだ。


 人だかりが、ひとつの大きな生き物のようにうごめく。きらびやかな照明の下で何かを貪っている。それぞれの顔だけははっきり見せて。


 明日への野心、媚び、へつらい。それらをまとめて食い物にしているのは誰だ。


 ここへ人を集めた、長一郎に相違あるまい。利にありつこうと、寄った者どもをまとめて丸呑みにしてしまう。互いを食い殺そうと、たかり、たかってくるものまでを利用する醜悪さ……。


「なに、すねているんだよ。前と同じことをして。こっちに来ればいいじゃないか」


 群れから外れて、あずま知之(ともゆき)はおれのもとへやってきた。


 手をあげて、上目遣いにうなずいてみせる。


 かれらの前で呼びかけられてはまずい。


 石倉海運の社長は、無能で人前に出せない、というレッテルを、外すわけにはいかない。これこそが、おれに残された、わずかな自由を担保するものなのだから。


「さ、行こう。ぼくがついてる」


 東の手が、おれの手首を掴んで、抵抗する気をおさえつける。


 すらりとした長身のうしろ姿が、いつかの加瀬に重なって、おれをどこかへ連れて行く。


 あの日、大広間で一睡もせず見つめていたのは、来るはずもないと決め込んでいた遠いあした。このままここにいられはしないのだ、とわかっていながら動けなかった、当主の椅子の上。


 大広間から中庭を望む窓の、分厚いカーテンを閉めたまま、過去に引きこもろうとしたおれ。そこから抱え上げたあの両腕が……。


 通り抜ける。時間を。人の間を。


 そのテーブルへ、意外な取り合わせで現れたものだから、余計に周りはこちらへ視線を移してしまう。


 眞波は唇へ傾けたグラスを離し、欣二にいたっては、小さく声をあげた。


「ほんとうに奥ゆかしいものだから、末席で静かに過ごしていましたよ」


 あたりの空気はしんと静まりかえって、誰もが何を口にすべきかわからなくなっている。


「ごきげんよう」


 何かおかしなところでもあったのだろうか。それとも余程のんきに聞こえたのか。おれの物言いに、つい、さなえが笑ってしまった。それにつられて、翔太郎も、そして欣二まで口もとを緩めた。


「先生。かれをつかまえてきましたよ」


 東とおれの顔を交互にくらべるように見て、長一郎が応える。


「知之。かれと面識があるのか」


「ぼくら、友達なんですよ」


 長一郎は不可解そうな表情で構えている。


「わざわざ、きみ自身がやってくるなんて……やはり、先生のご活動に、心をつかまれているんじゃないか。何か言いなよ、黙っていては、伝わらないよ」


 目を丸くしたまま、こちらへ注意を向けている眞波。


「このたびは、おめでとうございます」


 皆が一瞬沈黙したあと、揃って笑いだした。長一郎もこれにはつられたのか、顔を真っ赤にして大笑いした。


「なにかが、めでたいのかもしれんが……ちょっとわたしにはわからん。しかし、まあ、気持ちだけは受け取っておくとするか」


 このパーティーは、特段何かを祝うものではなかったようだ。


 東も、つなぐ言葉をなくして、どうしたらいいかわからないといった様子だ。


「定期的にあるパーティーなの。留学生たちの成長を皆様に披露して、チャリティーの成果を報告しているといった感じのね。大事だと思ったら顔を出しなさいよ」


 眞波はそれだけ言って、グラスの残りを流し込んだ。


 もしかすると、こうした様子で、人の輪の中に入っていけば、おれにも新しい道が開けてくるのかもしれない。とっかかりとして、東はその役を買って出てくれたのではないか。


 不意に気付く。


 遠くで光る、見たことのあるような男の瞳。


 背筋に冷たいものを感じる。両脚が脱力するような、独特の恐怖感。


 あれは、由花子の父、松野(まつの)(やすし)ではあるまいか。


 一度、五百旗頭の屋敷で顔を合わせただけだ。しかし、駐車場の黄みがかった橙色のランプが染めたあの光景は、なぜだか目に焼きついている。


 翻って、自らが秘書として仕えていた議員の息子、蔵人の縁談を潰し、ひとり娘に手を出した男。かれの目にはそう映っているはずだ。


 ただ、おれは公の場に出ないとふんで、すべてを内々に隠し通すことに決めたのだろう。欣二もわかっていて触れずにいる。


 ……この場にとどまっていては、あとが面倒だ。


 違う未来への扉は目の前に開いていた。しかしおれは、その先へ行くことができない。いつだってそうだ。こうすればいいとわかっているのに、なにものかが、おれの行く先を強引に捻じ曲げる。


 秘書室長が流したであろう情報に、誤りがあった。今日は、それだけでよしとしなくてはならない。


 周りに一礼し、そっと離れる。


 東が追いかけてこようとしたが、人のさざ波がつくる潮目に隔てられ、進めなくなってしまった。


 振り向きざまに見たかれの顔に、少しだけ、悲しそうな色が混じっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ