閉鎖性水域・2
ワインレッドの扉の向こうで、おれは秘書室長に尋ねた。
「イオ学園からの招待には、雄浦常務が出席する、と返答したのですね」
「はい。いつもは専務でしたが。都合がつくのが常務でしたし、ご本人の了解も得ました」
秘書室のスタッフたちは、それぞれの仕事を抱えて、机にかじりついている。おれはめったにここへ来ないようにしていたが、誰ひとりこちらをうかがう様子もなく、気にしてもいない。
「そう、ですか……」
それ以上何も言わず、廊下へ出て行く。
明かりの入るひとすじの道。
先行く人のうしろ影を追う。
足音を消さなくとも、吸い込んでいくやわらかさ。誰はばかる必要もないくせに、一歩一歩距離を詰めながら忍び寄っていく。
背広のストライプが紺地に濃紺で隠されているのを間近に確かめるあたりで、相手の膝から下に、ためらいが起きる。
静かな空気の揺れ。おれは死角に入りきり、笑みを押し殺す。警戒して振り返ったところで、棒立ちになってみせる。
思ったとおり、かれは常務の雄浦で、少しあきれながら笑っていた。
洒落たネクタイ。どこか明るい顔色。そして週末。スケジューラーにもたいした用は入っていない。
「驚かす前に気づかれてしまった。失敗失敗」
ひとりごちて戻る社長室。かれは首をひねったままだったに違いない。
おれはその日、ひたすらに夕暮れを待った。
西のかなたへ今日を見送ったあと、会社から出て行った。
仕事の匂いは残したくない。少しくだけたものに着替えて、サングラスをかける。
宵闇に海色のフィルターをかけて人波に潜る。タクシーを捕まえ、先に札を渡すと、運転手はとびきりの笑顔で受け取った。車内で、それらしき人が出てくるのをじっと張り込む石倉海運そば。
「いまの車のあとを」
「承知しました」
追いかける相手、紺の背広は、夜にとけてブルーブラック。会社から出れば、誰しも独りの顔になって、時と街の流れにのまれていく。
おれも世界のモザイクの一端になる。
タクシーを降りたかれの様子は、あてのある歩き方ではない。軽い足取り。距離を隔てて、おれもそのように動いてみる。
すれ違う女の、ありふれた香水の存在。
寒風から、われとわが身を守るための装いはデコラティブ。道行く人の、コートの淡いピンクの色味に、先駆けた春を見る。
かれは一度もスマートフォンを取り出さず、ふらりと小さな店に入っていった。およそ会社役員が人と会うのに使う類ではない。
おれは寒空に立ち尽くした。
流れていく、流されていく波のひとつひとつに人生があり、夢と希望と、そして失望がある。
「おじさん、ひとり?」
若い女が声をかけてきた。
どこか薄汚れたなりで、化粧もところどころまだらになっている。よく見ると、唇の端は切れていて、不自然に歪んだ輪郭は、暴力の痕跡を思わせた。
「待ち合わせなんだ。時間調整中。せっかくだけど」
女はおれの頭の上からつま先まで舐めるように見たあと、黙って踵を返し、どこかへ消えていった。
この青く暗い街は、もはや波の下。広いはずなのに、どこへでも行けるはずなのに、自分から雁字搦めになりにいく。きっと誰かが一時的に助けたところで、また元のところへ戻ってしまうだろう。
自分の不仕合せを、人のせいにするほど楽なものはないのだから……。
走り去るタクシーのヘッドライトと、横切る車たちのテールライトが交わって、オレンジ色したチェックのエプロンを描きだす。
からっ風が目にしみて、寒い。
もう少しここにいたほうがいい、とわかっていた。けれども、人混みに、ある一つの面影を探してしまうのには、耐えられない。
おれは店の戸を開けた。八割がた、客で埋まっている。
無言でカウンターに腰掛ける。隣の男がちらとおれを見る。そのまま視線を外して、自身のジョッキに手を伸ばす。ためらう。こちらを再びゆっくり確かめる。
「今度は、驚いてくれた?」
常務の雄浦が立ちあがろうとするのを止めて、ビールを注文する。
「ちょっと、事務所でできない話があって」
酔客たちは、それぞれの所属する集団へのねじれた愛を、愚痴の節回しで歌う。誰もが自分の話を聞いてほしいと願うくせに、他人のそれに耳を傾けることはない、ひとりぼっちの群れ……。
会社では決して見せるはずもない、プライベートの顔で、雄浦はジョッキに口をつけた。カウンターの上に、かれもおれも、肩書も一緒に外して置いてみる。
「ちょっと、妙なところがあるんです。秘書室長に、いたずらを仕掛けてみようと思います。一緒にどうです?」
「わかりました。わたしも、あの人については思うところがあったので。そのうちお話しできればと考えていました……。わたしはわたしで、取締役何名かで、それぞれの動きをランダムに入れ替えてみることもできますよ」
「心強い! まず手始めに、学園のやつ、何も知らせずわたしと入れ替わってもらえませんか」
「はい。それでは、急病という理由でいきますか」
「よろしく。わたしがいいというまで、そのいたずらは続けてください」
「怪しまれたら、なんとします」
「二つ情報を流してみては」
「嘘を二つ流して、真実だけ黙りとおします」
「ありがとう。こんなことはあなたにしか頼めません」
理由を訊きもせず、引き受けてくれる。
そうした雄浦は、にこりと笑ってみせた。ただでさえ、目と眉の垂れた顔をしているのに、余計にそれが際立った。
ビールがきて、途中まで飲んでいたかれのジョッキに軽く当てる真似をして、今度はおれが笑いかける。
そうでもしなければ、いつまでも、オレンジ色のチェックがちらついて、表情をひとつ忘れてしまいそうだったから……。




