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遠いしあわせ・5

 翔太郎の瞳のなかの、おれ自身に語りかける。


五百旗頭いおきべの娘婿でありながら、よそに女性を作り、下駄どころか、竹馬を履かせてもらって社長をやっているくせに、楽隠居をすることばかり考えている」


 なんといううららかさ。太陽は春の輝きをここへいち早く届け、部屋はそのままひだまりになる。おれをかたちづくるものはそこへとけて、輪郭をなくしていく。


「わたしは、そうした男です」


 ブラインドの隙間からの光が一筋。かれとおれとを同じ軌道にのせる。


 翔太郎もこの部屋のまばゆさにのまれていき、おれの瞳に自身を見つけ出すのが、なぜだかしっかりとわかった。通り過ぎた道だ。かれは、少し以前まえのおれなのだ。


「わたしは、社長がわざとご自分を嘲っているとは思いません」


「軽蔑しますか?」


「いいえ。そうした重責だらけの道を、わたしも歩むことになるのだろう、と」


 まぶしすぎる。季節は太陽のルートを確かに変えてきた。さっきまで空を駆け巡った、雲はその先駆けであったか。


 生まれてこのかた、春の空の青さは、おれの人生には存在しなかった。いつだって、雨を内側にはらんだ、低く重い水蒸気の連なりが頭上にあった。晴れたと思えば、不吉色した黄昏が、遠く西の空を染めるだけ。


 ただ、向かい合うこの青年には、今のような明るさがよく似合う。変装のためにかけた見栄えの悪い眼鏡を直ちに外させ、いつも通りの髪型に、すぐにでも戻してやりたい。


 くつろげるなりにして、太陽の下、幸福の顔で好きなように歩ませてやりたいと思った。


 なぜ、それなのに、この陰鬱な男の影を踏もうとしているのか。


 ただの雇われ人として、緩やかに年をとり、微笑みつつ、来し方を振り返る人生だって、送ることができたはずだろうに。


 急須の、ずらした蓋についた水滴。落ちてゆく、熱さの成れの果て。


「そもそもわたしは、生まれついての経営者の息子などではありません。ただの成金二代目です。サラリーマンの家の人間として見られるのが、まっとうです」


 冷めた茶に、おそるおそる口をつける、自分自身の臆病さ。


「結婚、よしておきますか」


「いいえ。彼女のほかに考えられません」


「当人どころか、義父だってそう思っているでしょうね。あなたに、半ば無理難題レベルの仕事をさせるのは、将来のことを考えているからです。出自ではない、当人の人間性や能力が理由だと、周りに納得させるためにね」


 翔太郎は料理をきれいにたいらげた。食べかたにも、その後の振る舞いにも下品さはない。


「皆、あなたの幸福をそれぞれのやり方で願っている、それだけです。わたしも含めてね」


 まっすぐな瞳がおれの前にある。黙ってうなずき、太陽の通り過ぎゆくさまを見る。


「別段あなたがここへ出入りしても、何もおかしいことはないのですよ。変装などせずに、堂々とお越しになったら?」


 翔太郎の視線が不意に動いて、出入口の扉を示す。


「今日、社長がここにいらっしゃるとわかっていて、わたしは参りました。すべての動きが筒抜けになっていると思いますよ」


 ガラスの向こう、ボトルシップの海はいつもべた凪で、全く荒れることはない。


 閉じ込められていると、気づいているのか、いないのか。この淋しくも美しい船は、瓶のなかで帆を張りつづける。

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