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遠いしあわせ・4

「しばらくお目にかかっていませんが、お父さまはお元気ですか?」


 届けられた弁当は、相当に気をきかせてあった。やはり、どうしても、秘書室は優秀で、誰ひとり動かしようがない。


 添えられた茶器も、翔太郎が()れるのにもいいようなものだ。


 気の遣いかたまで、考えがめぐらせてある。おれはもはや、万事、ここではただの駒。胸に迫る、壁にはりつけられた船の舵。


「おかげさまで。忙しいようです。週のうち半分も、家で顔を見ないことがあります」


「なによりです。あなたは、お父さまの会社にはお勤めになっていましたか?」


「いいえ、新卒で、よそに二年ほど……」


「お若いのに、イオホテル本部とは。大抜擢ですね」


 はにかんだ笑みがまぶしい。


 若い横顔を、昼の光が照らす。


「あなたは、お父さまの会社は継がないのですか」


「父とも、それは話しました。すると、気にしなくていい、と。かえってわたしの背中を押すように、言ってくれました」


 愛されて生きてきた者特有の、屈託のなさ。間近にありながら、ひどく遠い。


 棚の上のボトルシップを眺める。


 おれは、おそろしく透明度の高いガラスに閉じ込められた船だ。誰にもその一枚の存在を悟られないまま、勝手にぶつかってきて、痛いと言う。


 自分自身だって、その出口を探してはみるものの、解決法はない。どのみち無理な話だ。ボトルシップは、瓶を叩き割らなければ取り出せない。


 そのときには、船だって壊れている……。


「大変なお仕事だと思いますよ。アズマさんは、遊覧船がメインの、旅客船業ですものね」


「正直、わたしは、船の業界のことだとかは、よくわからないのです」


「同じ海というフィールドに働いているだけで、本当のところ、まったく、アズマさんとは競合しないのですよ。だから、わたしは気にしていません。船とひと口にいっても、運ぶのが貨物か、人か、あるいは漁業か。はたまた曳船(えいせん)……タグボートというものもあります。それで、外国へ行くのか、国内をまわるのか、でも違うのです。石倉海運のメインは、何だと思いますか?」


 翔太郎の、箸を持つ手が止まる。


「実はね、不動産業なのです。港近くには、必ず、コンテナなどを置く場所、倉庫があるでしょう。あれですよ」


 おれは自分の茶を淹れるついでに、翔太郎のぶんも注ぎ足した。恐縮するのをてのひらでなだめて、自然に向けることのできた笑顔に、ひとり驚く。


「もちろん、船だって出していますがね。貨物もいいところです。けれども、五百旗頭の人々は、旅客船でなければ、海の仕事とはいえないと思っています。あれはあれで大変でしょう。海がいつだっておとなしいわけではないのだから。まして小型の遊覧船、とくれば、欠航という判断に至る場面も少なくない」


 風の歌の演奏は終わったらしい。しかし、反対から吹きつけてくるものがなければ、波はそのまましばらく暴れ続ける可能性だってある。


 いずれにせよ、人間のちからの及ぶところではないのだ。


「そうなると、他の収入源があるかどうかも気になります。アズマさんは、ヨットハーバーに、それに付随する施設、レストランなどもおやりになっています。だから、石倉にも、やれ、と五百旗頭は言うわけです。ただ、わたしは、貨物と不動産とで、()()()仕事をしたいと思っていますから、手を出さずにいます。畑違いもいいところなんですがね。なかなかそこは、わかってもらえないようです」


「リゾートホテルと、旅客船を結ぶような構想は、きっとあると思います。それで、アズマ・マリンレジャーにお声掛けくださったのでしょう」


「実際、五百旗頭も、レストランには力を入れていますからね。それは、アズマさんにも良い風が吹くでしょう」


 誰かと食事をするのは久しぶりだった。


 いつもよりしゃべりすぎると思ったが、きっとそれは、春の訪れが近いせいだ……。


「正直言って、わたしに、事業欲というものがないのが、五百旗頭は気に入らない。それだけですよ」


 翔太郎はしっかりと物を咀嚼し、味わいながら食事をしている。おれにとっては、ただに腹を満たすもの、あるいは、滞りそうな会話をどうにかするためのツールでしかない。


「いつ辞めたっていいんだ。会社なんて売っ払ってしまえばいい。贅沢なんかしなければ、ゆっくり生きていける。本当に嫌になったら、どこか遠くの田舎にでも引っ込んで、ささやかな釣り船など出して、のんきに暮らすさ……」


 目を見開いた翔太郎。


 テーブルの金具に歪んだおれの顔が、とれかけのパーマヘアで、加瀬に近づく。

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