夢の棲む家・1
長い坂を下り勾配で進みながら、鬱蒼と茂る木々の、理解不能の会話を風に聞く。まったくの真冬の色彩に取り囲まれて、寒い。いつしか入り込んだ私有地。対向車はなく分岐も存在しない。山の形もわからない距離まで至れば、たどり着きたくもない目的地が、シルエットで間近に現れる。
瞬きの間にちらつく、いくつもの過去。木の陰から覗き返す、あたりの生命たちのなかに、いつかのおれ自身を見つけ出しそうだ。
出入口のほど近くに、黒いセダンが一台止まっている。いかにも要人を乗せる類のもので、ハザードを点灯させている。おれは減速し、そっと、わきを抜けようとした。
向こうは見逃さなかったらしい。影から出てきた背広の男が手を挙げる。知らないふりをしたかった。ただでさえ長居をしたくない。面倒事はごめんだと。しかしおれは窓を開けてしまうのだ。
男は、ここの出入口どころか、インターホンすら見当たらないと言ってきた。
思った通りだった。わざわざそのように造ってあるにもかかわらず、教えもしない。遅刻という落度を意図的に作り出してから、対応するつもりなのだろう。
おれが手元のリモコンを操作すると、塀の一部が動いてゲートが現れた。先に入り、内側にしかないボタンを押し、来客を知らせた。
もう少しすれば、おれの後をついてあのセダンが来る。急ぐのは鬱陶しいからだ。それでもかいなく追いつかれてしまった。おれは駐車場の端の目立たないところへ止める。
太陽の偽物めいた、橙の照明は、物陰とコントラストをなして、危険を示す組み合わせ。
さっきの男が降りて、礼を言いに来た。その時、驚いた表情を見せたのはどういうことだろう。暗がりにいる、大きな影にはたと気づく。要人だ。ただならぬ貫禄である。おれは今度こそ知らぬふりをする。軽く会釈などして、足早に去った。
正面玄関の手前で、横に入る。
曇り空を背景に、竹林が揺れる。おれはそこの小径をたどる。かれらは道なりに進めばいい。
知りたくもない話ばかり向こうからやってきて、おれをとらえてしまう。
この屋敷はそういう場所なのだ。
初めて足を踏み入れたときから、それだけは変わらない。
飛び石の間から草が生えている。出入口の鍵は開いていた。入るなり、よどんだ空気がおれを包む。ひどく寒い。
おれは廊下へ向かうとき、履物を手に持つのを忘れなかった。中庭の池は埋められてあり、沓脱石にうっすらと苔むしている。
底冷えのするこの景色で、繰り広げられた人のやりとりを思い出す。寒さの棘が衣服を通り抜けて、おれの心までじかに届いて痛い。
こんなところに波留を置いておくなど、人間のすることではない……。
がらんどうになってしまった一角。そこにあった本棚の中で傾いた分厚いものは、波留の小学校の卒業文集であった。内容は、将来の夢を書かせるという、じつにありふれたものだ。
「専業主婦になりたい。ふつうの、小さな家で、あたたかな家庭を持ちたい」
ただそれだけだった。
他には野球選手だとかモデルだとか、実にきらびやかな話の中で、波留だけがそうしたことを書いていた。
「なぜ、誰にでもできることを、夢にしたの」
おれは尋ねてしまった。
「ふつうが、一番、難しいでしょう」
あのときの、波留の答えを思い出すたび、やりきれない心持ちになる。
暗い部屋の畳の目から、あらゆる記憶の影が噴き出してくる。何もないはずの場所に、遠い日がよぎったが、すぐに消える。おれはそれをつかもうとしない。ただ眺めるだけ……。