遠いしあわせ・3
「ありがとう、翔太郎くん。しかし、なぜわたしに、そんなにしてまで、教えにきてくれたのですか」
「この間、わたしの父も交えての食事のとき、思ったのです。事前に聞かされていた話と、実際にお会いしてみた後では、石倉社長への、わたしの気持ちが違ってしまったのです」
初めて締めたネクタイの柄は、何だったろう。なかなかうまくいかなかった、長さの調節具合。
結び目の下に作るえくぼ。そのわざとらしさに、処世術としての表情の使い方をみとめた、遠い日のおれはどこへいった。
目の前にいる翔太郎は、そうしたことを考えたりしただろうか。もしそうなら、まだ同じ気持ちのままでいるだろうか。
「わたしはどうしても、さなえさんたちをはじめとするみなさまの、石倉社長に対する距離の取り方に納得がいかないのです。口はばったいことを言うようですが、石倉社長は、五百旗頭社長の義理の息子さんにあたります。わたしもこのまま、さなえさんとの話が進めば、いつかは……」
照明の落とすおれの影は淡い。その一部が、カーペットの上で、翔太郎のものと重なる。
「正直、わたしは、このまま一緒になってもいいものか、と悩んでいるのです。籍を入れたら、苗字は五百旗頭にするよう言われています。けれども、それに相応しいかどうか、自分で自信が持てません。他にも、とかく二人の縁談に障害が多いような気がして。もしかしたら、よしたほうが良いのではないか、とも……」
生来みずみずしい肌であろうに、顔色はどこかくすみ、目の下のくまは隠しようもない。眼鏡を外せば、もっとはっきり疲れが現れてしまうだろう。
「順調に行くのもそれは結構でしょう。ただ、あなたがたは、危機に直面して、二人で何とかしようとしていましたね。わたしはそれを見て、幸せになるだろうなと思いましたよ」
翔太郎の瞳はまっすぐにおれをとらえている。
「義父は、跡継ぎを育てようとしているんです。五百旗頭姓をあなたが名乗ることで有利にはたらくなら、そうさせればいいじゃないか、という、義父のこだわらなさでしょう」
「けれども、なぜ、石倉社長をさしおいて……」
「わたしはそもそも五百旗頭の本家筋ですから、跡を継がせるべき者ではないのです。そこは気にしないようにね」
陽射しはやわらかく、雲の隙間からおれたちのもとへ降り注ぐ。
「有能な者に、積極的にそれに見合うものを引き継がせたい。そうした大きな度量のあらわれだと思いますよ。今は相応しいというわけでなくとも、これからなっていけばいいのでは。あなたたち二人の幸福を願う親心のなせるわざ、と受け止めてはいかがです?」
おれは立ち上がり、秘書室に、二人ぶんのランチを注文するよう指示した。特に若者の好みそうな、良いものを選ぶよう、匂わせる。
「一緒に昼をとりましょう」
「あのう、いえ、突然におうかがいしたのに、申し訳ありません……」
「いいの、いいの」
地上に立ち並ぶビルの間から、のぼる排気ガス。淡い青の空は遠く美しく、届かず、宙にとどまる灰色の靄。
翔太郎の奥ゆかしさ、清さが、いつか濁りをみせたとき、立派な実業家として出来上がってしまうのだろう。
そして、義父、五百旗頭欣二の不幸を思う。かれは後継者に恵まれなかった。
言わずもがな、既に長女を嫁がせている婿……おれについても同じようなものである。
デスクから応接セットへの数歩。
おれは翔太郎の背中に、いつかの自分のうしろ姿を観る。
振り返れば、かすんだ点でしかない猛にはじまり、海辺に立つ澪標のような史と、かなた天空輝きつづけて届かぬ律。
家と血の道のりは暗く、得られるものは重すぎる。
それを、外部からやってきた若者に歩ませ、背負わせようというのか。
かれの父が事業をたまさか成功させたからといって、早くも、運命はかれに何かを押しつけはじめるのか。
まだ義兄弟にもならぬうち、敬意に満ちた思いやりで動くその心を、名誉と財で縛りつけることが、幸福だというのか……。




