遠いしあわせ・2
男の瞳はつよく光っていた。
上目遣いの角度に潜む、願いのようなもの。
髪型も変えて、似合わぬ眼鏡までかけ、何故に東翔太郎はここにいるのか。
背中から差し込む太陽光がブラインドをすり抜けて、五線譜を描き出す。おれは即興の音楽を奏でなければならない。観客は、ドアの脇にいる秘書と、情報を伝え聞こうとする、室長だ。
「山本でございます、ご無沙汰しております」
「こちらこそ。しばらくお会いしていませんでしたね。遠方からご足労おかけしました。秘書室に伝えたつもりでしたが、わたしが失念していました。たしかに今日、アポイントはあったのに」
翔太郎の表情に浮かんだ安堵の色は、おれだけが気づく角度。
「さあ、山本くん、こっちへ。土産話などきかせてくださいよ」
応接セットの方へ進んでいくと、ドアが閉まった。遠ざかる音を確かめる緊迫をあらわすのは、休符。
無言で待つ、秘書の再びの入室。コーヒーがそれぞれ目の前に置かれる。立ち去ってしまった後のかすかな仕舞まで、カーペットの上のヒールに聞き取れば、息詰まるアドリブは終わりだ。
「意外ですよ。まさかあなたが、ここへいらっしゃるとは。それに変装までして」
「突然に申し訳ありません。社長が話を合わせてくださるかどうかは、賭けでした。けれども、どうしてもお伝えしたいことがありまして。わたしがここへ参りましたことも、知られたくないのです」
おれはコーヒーを翔太郎にすすめる。湯気が立つカップは、おれにとっての飲み頃ではない。
「時間のことは気にせずどうぞ。わたしには、なんの予定もありませんから」
恐縮した様子ながらも、ひとまずかれはカップに口をつけた。
閉じた目元に、思案が筋を作らせる。渇いているであろう喉を潤すには、いささか不向きな飲み物。それでも、香り高さで、落ち着いたような気にさせてくれるだろう。
「何とかあれから、建設中止にもならず、物事は進みました。あとは完成を待つだけといったところです」
「うまくいったのですか。大変だったでしょう」
「ええ。契約の名義の、息子さん……大鳥蔵人氏が意識不明でしたから。なんとか大鳥先生の事務所へ行き、相談すると、秘書の松野さんが、諸々の事柄をまとめてくださいました」
翔太郎のスーツは、少し前に会ったときのものとはまるで違っていた。仕立てを変えたのだろう。かれ自身にしっかりと馴染んでいる。
「ただ……おおむね話がととのったころ、意識不明だった、蔵人氏が目を覚ましたんです」
雲の動きがブラインドからの光を鍵盤にして、照らし、また翳らせ、曲を奏でる。
「議員としての後継者問題が立ち上がりました。蔵人氏が意識不明のままなら、松野さんが立候補で決まりだったのですが……そうもいかなくなりました。割れたんです。松野さんと、蔵人氏とに」
外では風が吹いている。きっと海が目の前にあるなら、白波を見てとることができるはずだ。
「いくら手腕があったとしても、土地柄、秘書というだけでは誰もついてきません。そこで、松野さんは、ご自身のお嬢さんを嫁がせ、蔵人氏の義父という立場を手にするつもりなのだそうです。表向きには、あくまでも中継ぎとして。ゆくゆくは蔵人氏に譲るといった建前で、立候補するそうです」
差し込む陽と、おれが交わってチェック柄。
あのエプロンが、急激に色あせてしまったあとのような彩りに、部屋じゅうが染め上げられる。
頑丈だったはずのミトンが、かたちを崩される日がくる。ほつれた糸を引っ張れば、まとめて解けていってしまうような……。
しあわせ色のエプロンをまとった、振り向きざまの由花子の微笑み。もう二度と取り出せない記憶のなか、過去に閉じ込められてモノクローム。おれの、恋の遺影。
「松野さんが、ご自身のお嬢さんと、石倉社長との関係を、五百旗頭社長に話していました。それをたてに、きっと何か言ってくるはずです。例えば、選挙の協力をしろ、だとか」
冬の風の歌。寒い棘が、この頑丈な建物をすり抜けて、おれの胸に刺さって痛い。




