表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/105

遠いしあわせ・1

 目を開ける。


 あたりは暗闇のなかで、夜明けも遠い。


 伸ばした手のさきに、ぬくもりはなく、ベッドは冷たい。どこかから差し込む光で、ぼんやりと浮かび上がるシルエット。


 まどろみながら生きるのはいつものこと。知らぬうちにまたいでしまった日付。


 ナイトランプは、まだ昇らぬ冬の太陽の代わり。デジタル時計の大きな文字に朝のありかを見つけて、シーツを自分自身から剥ぎ取る。


 どこにも気配ひとつなく、静けさの音が響きわたる。


 明かりをつけて、時計どおりに朝の光景を作り出してみても、おれの影がその場に散らかるばかり。そこには昨日のままの淋しさが満ち満ちていた。


 冷蔵庫の横のフックには、エプロンと、揃いのミトン。


 おれは、祈りめいたちからで、過去を今に重ねてみる。


 当たり前だった、朝食の匂い。変わりばえのしない、いつかの田舎の食事。それを支度する、傾いた太陽色のエプロンの動き。


 ミトンは、細かい動きはできないとしても、決して取りこぼさないように作られた、隙のないキルティング。


 女が振り向くと、つかみ損ねた夢が、装いを変えて、おれに迫ってきた気もする……。


 それが今や、買い置きのものを温め直すだけのむなしさ。はじめから今日までそうだったなら、淋しいとも思わずに済んだのに。


 何度も確かめる電話の着信履歴。眠りの間の不在の文字はどこにも見当たらず、送ったメッセージに、既読を知らせる合図もつかない。


 由花子はまだ島から戻らず、ここへもやってこない。おまけに、連絡もとれずにいる……。


 一人きりのダイニングに描くまぼろし。選び取れなかった幸せたち。洗練とは程遠い人間と、時間をここに再現しようとして、しくじった男。


 そうしたおれが聴くのにはちょうど良い、ビル風の、冬の冷たい歌。


 湯飲みからたちのぼる温かさを、受け入れることのできない体のつくり。


 朝の支度をする頃には、陽は昇っている。


 差し込む自然の明るさのなかで、覗き込んだ鏡に、引きずりつづけの過去を見る。


 取れかけのパーマ。ちょうど、このあたりに、加瀬かせ(ふひと)の面影を探してしまう。


 今日の夕方、少し早くあがって、ヘアサロンへ行くことにしている。これ以上思い出に浸りきってしまわないように。


 地下の車寄せに回した、迎えの一台に乗り込む。


 いつもなら歩くのだが、どうしてもその気力が湧いてこない。


 ここへ会社の車を呼ぶのは初めてだった。運転手は、疑いながらも、詮索の心を抑えて、あえて触れずにいる。


「災害時や、帰りが遅いときは、ここに泊まるのですよ。わたしの親戚の持ち物で、厚意で一部屋貸してもらっているので」


 はあ、と返事をするときの、安堵のニュアンスを、おれは聞き逃さなかった。言い訳は、かれのためではない。理由を知りたがる秘書室長へ向けたものだ。後から、この運転手へ、尋ねにくるのだから。


 窓ガラスに映る、疲れ果てた自分自身に、無言のまま語りかける。


 いつもが行き詰まったら、違うことをしてみればいい。まるで自分から選び取ったかのように振る舞ってみたりすれば、不本意な人生に対する、韜晦とうかいにだってなりはしないか? そうだろう……?


 おれの虚像が散らばる。


 車のガラス、オフィスの自動ドア、エレベーターの金属部分。


 そして、ただの飾りの腕時計。


 おれはオフィスでしばしば時間を確かめる。それは、どれだけ()()()()()()かを測るためで、未来への余白を作る目的ではないのだ。


 強いていうなら、何かの終わりのカウントダウンに使っている。


 早く、悪い夢から覚められたらいい、と願い続けているせいだ。


 不意に鳴るブザー。インターホンのようなボタンを押して返事する。


「お客さまです。今日というアポイントはないのですが……社長から呼ばれたと……」


 まったくそうした覚えはない。しかし、まさか、ということもある。


「ふむ。お通ししてください」


 ノックの音がする。


「どうぞ」


 秘書がわきによけて客を通す。


 開いたドアから現れた影に、おれは息をのんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ