遠いしあわせ・1
目を開ける。
あたりは暗闇のなかで、夜明けも遠い。
伸ばした手のさきに、ぬくもりはなく、ベッドは冷たい。どこかから差し込む光で、ぼんやりと浮かび上がるシルエット。
まどろみながら生きるのはいつものこと。知らぬうちにまたいでしまった日付。
ナイトランプは、まだ昇らぬ冬の太陽の代わり。デジタル時計の大きな文字に朝のありかを見つけて、シーツを自分自身から剥ぎ取る。
どこにも気配ひとつなく、静けさの音が響きわたる。
明かりをつけて、時計どおりに朝の光景を作り出してみても、おれの影がその場に散らかるばかり。そこには昨日のままの淋しさが満ち満ちていた。
冷蔵庫の横のフックには、エプロンと、揃いのミトン。
おれは、祈りめいたちからで、過去を今に重ねてみる。
当たり前だった、朝食の匂い。変わりばえのしない、いつかの田舎の食事。それを支度する、傾いた太陽色のエプロンの動き。
ミトンは、細かい動きはできないとしても、決して取りこぼさないように作られた、隙のないキルティング。
女が振り向くと、つかみ損ねた夢が、装いを変えて、おれに迫ってきた気もする……。
それが今や、買い置きのものを温め直すだけのむなしさ。はじめから今日までそうだったなら、淋しいとも思わずに済んだのに。
何度も確かめる電話の着信履歴。眠りの間の不在の文字はどこにも見当たらず、送ったメッセージに、既読を知らせる合図もつかない。
由花子はまだ島から戻らず、ここへもやってこない。おまけに、連絡もとれずにいる……。
一人きりのダイニングに描くまぼろし。選び取れなかった幸せたち。洗練とは程遠い人間と、時間をここに再現しようとして、しくじった男。
そうしたおれが聴くのにはちょうど良い、ビル風の、冬の冷たい歌。
湯飲みからたちのぼる温かさを、受け入れることのできない体のつくり。
朝の支度をする頃には、陽は昇っている。
差し込む自然の明るさのなかで、覗き込んだ鏡に、引きずりつづけの過去を見る。
取れかけのパーマ。ちょうど、このあたりに、加瀬史の面影を探してしまう。
今日の夕方、少し早くあがって、ヘアサロンへ行くことにしている。これ以上思い出に浸りきってしまわないように。
地下の車寄せに回した、迎えの一台に乗り込む。
いつもなら歩くのだが、どうしてもその気力が湧いてこない。
ここへ会社の車を呼ぶのは初めてだった。運転手は、疑いながらも、詮索の心を抑えて、あえて触れずにいる。
「災害時や、帰りが遅いときは、ここに泊まるのですよ。わたしの親戚の持ち物で、厚意で一部屋貸してもらっているので」
はあ、と返事をするときの、安堵のニュアンスを、おれは聞き逃さなかった。言い訳は、かれのためではない。理由を知りたがる秘書室長へ向けたものだ。後から、この運転手へ、尋ねにくるのだから。
窓ガラスに映る、疲れ果てた自分自身に、無言のまま語りかける。
いつもが行き詰まったら、違うことをしてみればいい。まるで自分から選び取ったかのように振る舞ってみたりすれば、不本意な人生に対する、韜晦にだってなりはしないか? そうだろう……?
おれの虚像が散らばる。
車のガラス、オフィスの自動ドア、エレベーターの金属部分。
そして、ただの飾りの腕時計。
おれはオフィスでしばしば時間を確かめる。それは、どれだけ流れていったかを測るためで、未来への余白を作る目的ではないのだ。
強いていうなら、何かの終わりのカウントダウンに使っている。
早く、悪い夢から覚められたらいい、と願い続けているせいだ。
不意に鳴るブザー。インターホンのようなボタンを押して返事する。
「お客さまです。今日というアポイントはないのですが……社長から呼ばれたと……」
まったくそうした覚えはない。しかし、まさか、ということもある。
「ふむ。お通ししてください」
ノックの音がする。
「どうぞ」
秘書がわきによけて客を通す。
開いたドアから現れた影に、おれは息をのんだ。




