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回折:古いアルバム・6

 顔を上げ、驚いた表情で、長一郎は加瀬の瞳をのぞきこんだ。


「猛はここにいる、山中氏の保証人になった。その結果、石倉汽船を潰した。迂闊(うかつ)にも。それだけならともかく、山中氏はなぜ、自身の会社を潰した、債権者の橋田氏といまでも昵懇(じっこん)なんだろうな? そして、その二人と、石倉のお株だった海を舞台にして何かを計画しているとなれば。黒幕は、長一郎、お前と思われるのは道理じゃないのか」


 長一郎の体が、小刻みに震えている。


「あの物々しい、護衛ってのはなんだ。イタリアンな趣味にかぶれたのかと思いきや、まるでさっぱりな、とんちんかんの英国紳士気取りのファッションのままだしな。そうまで警戒しなきゃならんほど、やましいことがあるのか」


「とんでもない! 猛にいさんがご存命ならば、絶対に、わたしの本家の石倉家を頼ったに決まっています。どうしてそんなことが」


 長一郎が、猛や加瀬のことを、にいさんと呼ぶのは、保身と、利のためでしかない。そこには敬意などあろうはずもないし、どちらかといえば、褒め殺しの、真の効用……つまり、軽蔑の最上級の手段に近いものがある。


 おれは、ついぞ兄弟としての礼も尽くさなかった、(つよし)のことをひどく久しぶりに思い出した。猛の面ざしを継ぎ、将来にはきっと同じような見た目になるであろうと、誰にも予想できた、あの小さな暴君。


 窓から見える、歩道の、歪んだ石畳。張りすぎた根が、その木自体を伐らせるもとになった。不自然な道路の取り繕いの跡に、剛のシルエットを重ねる。


「そのうえ、良を引き取るだと? 何のためだ?」


「猛にいさんが、ああしたことになって……遺児があるなら、何とかして差し上げたいと思うでしょう。海にまつわる施設ならなおのこと、良くんをそこへ、とは、至極まっとうな話ではないのですか?」


 一気に反論を捲し立てた長一郎は、ようやく目の前のカップに手を伸ばした。


 漆黒の液体が揺れる。


 そこに映る逆さまの部屋。歪むその縁に、わずかに山中と橋田。フレームアウトぎりぎりの二人をとらえて離さない、トリミングの、計算違い……。


「では、なぜ今なんだ。石倉がああなったことが、お前の耳にはすぐに入らなかったというのか。そしておれが引き取ったのを知らなかったとは。妙なところがある。何にしても、タイミングが絶妙すぎる」


「そんな……わたしは、あまりのことに、心痛で寝込んでしまっていたんです。あれだけお慕いしていた猛にいさんが……康子ねえさんが、剛くんまでも……。どうしてわたしにでもひとこと言ってくださらなかったのかと、夜も眠れず……」


「さて。そいつはどうかな。お前は、ずいぶんと、猛には辛くあたられていたよな。よもや良を引き取ろうというのも、絶対に反撃できない子どもを相手に、その腹いせをしようっていうつもりじゃないのか、ええ?」


 剛がいなくなったからといって、どこにも悲しみはない。


 おれは、いまや、かれと似た立場にある。


 猛と剛の関係性が、加瀬とおれで再現されているようなものだ。


「でなきゃ、どうして石倉を滅ぼした人間をそばに置いて重用する。なぜだ、言ってみろ、長一郎」


 長一郎は、目をかたくつむって、苦渋の表情を見せる。


「申し訳ございませんでした!」


 声をあげ、その場に平伏したのは、山中であった。


「わたくしが皆悪うございました。大恩ある石倉社長をああした目に遭わせたのは、この山中のせいです。橋田さんは浮世のならいと助けてくれ、五百旗頭さまは、わたしが自殺を企てていると聞いて、立ち直れるようにと、手を差し伸べてくださっただけなんです」


 おれの前の、不思議な大人たち。


 義憤のスーツを着た、知恵者。


 紳士気取りの卑怯者。


 そして、今更、証拠をあげられないはずだと読み切って、芝居を打つ、下手な役者。自分だけは無関係だと逃げようとしている小者。


 カーペットは、チェス盤を模した柄。これら全てを駒にしてしまったのは誰だ。盤上に載らず、見事に手を引いた遠い影……。


 ここにはいない、本当の黒幕。テーブルの端の金属部分に歪む、自分の顔から導き出される一つの答え。


 どう転んでも正体を明かされることはない。頼子はここまで計算していたのだろう。いつか、企てを知る者全てが消えた時、満足げに、あの花のかんばせに笑みを浮かべるのだ。


「良。もう、家を潰した者にかかわり合うこともない。言いたいことがあったら、今のうちに言っておけ、後悔のないように」


 モクテルの、ふやけた菓子の椅子を噛み砕く。飲み込む間際、古いアルバムに、()()()()()()()写真に落ちたであろう、涙の味がした。


 グラスのなかの、ちいさな海を、飲み干す。


 いつか時間がおれを大人にして、波の上を歩かせてくれる時がくる。そうしたら、好きなだけ大海原を駆けて、太陽のかけらを集めにいこう。


 くだらない争いは全て忘れ、るみと一緒にいつまでも楽しく暮らすのだ。


 家がどうした、血筋がどうした。


 おれは海を見ていたい。


 ただ寄せては返す、営々とした自然の姿に溶け込むようにして、残りの人生を過ごすのだ。


「猛と康子と剛がいなくなって、ぼくは幸福です。どうぞ、あなたがたもお幸せに」


 空は晴れ渡る。陽は降り注ぐ。堀の水は動かない。休日の道路は眠ったかのようで、車一台そこへ通りかからない。


 手をついたままの山中は目を見開いて動かない。長一郎は視線を虚空の一点に留めて、椅子にはりつく。


 おれは目を閉じた。

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