回折:古いアルバム・5
英国風の服を着た男は、驚きそのものの表情になり、言葉を失っている。
加瀬と目を合わせてわずか数秒。
男は席を立った。
「良、こっちへ来なさい」
おれが隣へ来ると、加瀬は上座に腰を下ろし、脚を組み、肘掛にくつろいでみせた。
「な、なにをしている。お二人のぶんも、お飲み物を!」
男は、山中たちに慌てて指示をした。
そして、おれたちにあてがおうとした下座についたのだった。
「ようこそ、五百旗頭長一郎です。お屋敷で以前お目にかかりましたね。いつでも、あなたの味方です、と申し上げましたでしょう。わたしです」
計算につぐ計算。採光のための窓は、太陽の通り道を知っている。
そのまばゆさに、消えかかる記憶。
大広間の外で、わざとらしくおれに接触してきた、あの男だ。猛の取り巻きのなかで唯一、おれへ親しくしようとした者。
対角線を挟んで九十度。加瀬のゆったりとした有様と、それに恐縮する姿。
何も言えなくなった山中が、ルームサービスを使い、三人分の飲み物を運んできた。おれにはジュースのはずが、モクテルとして提供される。見た目はやたらと仰々しい。味に関係のない飾りが気遣いのあとなのだ。
「まさか、史にいさんがお越しだとは。わかっていたら、迎えを寄越しましたのに。いまは、こちらにお住まいなのですか」
「おれのじいさんとばあさんがいるからさ。つくづく、面倒ごとがいやになった。こっちでゆっくりしようと思ってな」
「遠いかもしれませんが、どうぞ、我が家へも遊びにいらしてください」
「何キロあると思っているんだ、ここから」
「わかりました。それではわたしが参ります。わたしは史にいさんの弟分なんですから。いいですね」
取り壊されたはずの石倉邸の匂い。
決して古くはないホテルのこの部屋に、あの頃の息苦しさが充満する。
配役だけが少し違っている、無観客の劇。似たような舞台。かわりばえのしない筋書き。演ずることに倦んでしまったおれ。
「ところであれだ。学園てのは何なんだ。建設を考えているんだって?」
「さすがは史にいさん。本当に、なんでも、ご存知なんだから……」
「それはいいとして。誰に話を通した?」
「誰、といいますと?」
「議員だよ。この地方の、誰だ、ときいているんだ」
長一郎は首を傾げる。
「おい。まさか、ただただ、用地を買収しているだけなのか」
「細かいことは、今ここにいる二人に任せていますよ。山中くん。どなただっけかな」
「そういうことは。長一郎、お前がするものだ」
「では、史にいさんにお願いするのが一番ですね」
加瀬は苦い顔をした。
「冗談じゃない。そもそも政治から手を引かせたのはお前だろう。おれの親父殿が死んだ途端、資金がないことを見越してな。そんなお前が今更何を言う。大体、いつになったら当選するんだ。何のために、お前の親父までおれに頭を下げたんだ。おれの議席、地盤、後援会……みんなそっくり譲ったのに、一度もアガらないじゃないか」
古いアルバムの、不自然に剥ぎ取られた跡だらけの頁。壇上で花束を受け取る写真の理由が明らかになる。あれは当選時の一枚であったのだ。大勢に囲まれ、祝福されるただ一人……。
ホテルのプレミアムスイートは、いまや加瀬の雰囲気に馴染んでいる。夏物の薄い生地で仕立てられたスーツには、優雅なドレープ。
肘掛けに預けた、腕から手首のラインに差す光。あらゆる過去のちからが、今ここに喚び起こされる。遺伝子そのものが不可視の神籬になり、太陽がかれを縁取る。
まばゆさが、加瀬から、苦渋の跡を引き剥がしてしまう。
失意を突き破った知性が、かれを、石倉の特徴を持つ怨念そのものへと変容させていく。
おれは気づいてしまった。
思い通りにならなかった、間の悪い人生。
それこそが、かれの聖さのおおもとだったのだ。
「それをさておいて、今度は学園だと? おまけに根回しすら出来ていない? 一体、何をやっているんだ!」
「ま、待ってください。国政に打って出る前の、社会活動の一環なんです。海という場所を活かして、健やかな心身を育むという話です。船っていうものは、皆で力を合わせなければいけませんから、良いかと。それで、海のことなら、山中くんが明るいというので……」
「長一郎」
そこにいるのは、石倉猛の兄弟であって、海辺のまちで静かに暮らそうとしていた男ではなかった。
「猛を陥れたのは、お前か」




