回折:古いアルバム・3
「はい、加瀬でございます」
皆に目くばせをして、加瀬は人差し指を口の前に立てる。スピーカーに切り替わる。
「先生! ご無沙汰しております。橋田でございます。ああ、ようやく繋がった……」
「海外に出ていたものでね」
目の前に相手がいるかのように話す。
瞳はたしかに、そこにいないはずの男をとらえている。
くつろいでいたはずの姿に気迫が宿る。
「ははあ。さようでございましたか。先生、まずは、ご結婚おめでとうございます」
「これはどうも。ちょうど新婚旅行だったので。何度かお電話いただいていたようですが、なにぶん、時差があったのと、子作りに忙しくて……」
加瀬老人が笑いをこらえている。
「大変、失礼いたしました。野暮でしたね」
「さすがに、中断して、恋女房の機嫌を損ねるわけにもいきませんからね」
流しのそばに置いた器は、見るからにどっしりとして、すわりがいい。鉢としても茶碗としても使えるものだったが、持ってみると、不思議に軽い。
どういった理由がその現象を引き起こしているのか、想像もつかないのは、あまりにも高度な技術のなせるわざだからだ。
「もう。先生は冗談がお好きなんですから……ところで、ちょっとお話がございまして」
全員が耳をそばだてる。
「あのう。先生のところに、石倉さんの男の子、いますでしょう」
「ああ。いますね」
「先生、正直に申し上げますよ。先々のことを考えたら、よそへ引き取ってもらうほうが、いいのではないですか。いくらなんでも、ただ顧問だったというだけで、そこまで、石倉さんというお家に義理だてすることもないのでは」
隣の部屋は仏間だった。ついに姓の改まることもなく、若くして鬼籍に入った、加瀬の母も祀られている。
けれども、おれはその人の顔も名も知らない。探せば写真ぐらいはあるだろう。
ながい眠りにつく前にのこしていった加瀬史。かれこそが、この世に留まる、生きる遺産。
法律が、証拠が、紙切れが効力を持つなかで、一切を飛び越えた、ただの事実。
「それはね、先生のようにご立派なかたとなれば、ああした立場の子は放っておけないとお思いにもなるでしょう。しかし、先生にも新しい幸せができた以上、逆に、あの男の子も、居づらくなるんじゃないかと」
加瀬老人の目が据わった。
「そこで。奥さまの食堂がありますでしょう。あのあたりに予定しているのが、福祉施設……としか申し上げておりませんでしたね。本当は、色々と大変な事情のある子らが、皆で助け合って生きるという学園を作ろうとしているんですよ。ここまでの内容は、今までどなたにもお伝えしておりませんでしたけれど」
「ふむ、そういうことだったのですか」
「その学園を計画なさっているのが、五百旗頭長一郎さまというかたなんです。聞けば、石倉家は遠縁らしいのです。その遺児があるなら、いの一番に、そうした施設で面倒をみるべきではないのかと。それが筋だとおっしゃいまして。いえ、学園ができるまで時間はあります。その間は、五百旗頭さまご自身で、お手許でしっかりと養育なさるお心づもりらしいのです」
和歌とその情景が描かれた、湯のみの表面。きらびやかな御所車に花がかかる。御者の姿もない。止まっている。
「そして、今度、現地をご覧になるため、わざわざおいでになるのです。せっかくの機会です。先生は、五百旗頭さまと直接お話になったほうがよろしいのでは。なかなか一般の人では接点のもてないような、およそ高貴なおかたです。わたくし、僭越ながら、先生の御為ならば、間に立ってご紹介差し上げても」
時代劇によくある話だ。
車の内側のものが偉くなるに従って、近くに仕えるものも考え違いを起こして増長する。そして、御者も我が物顔に振る舞い、主家の評価もそれなりになっていってしまう。
「いつ、どこで?」
「さすが先生。話が早い。市内のホテルで、日時は……」
「わかりました。都合をつけましょう。当人も連れていったほうがいいですね。そういったお話なら」
「ええ。是非よろしくお願いいたします」
音を消したテレビの画面。選手の、勝利を確信する表情が大写しになる。得意満面。高く掲げた拳に、光るエフェクトを入れれば、それは試合の中継ではなくドラマ。
「あ、そうだ。先方さまには、わたしがどういった人間だとか、そういった情報は入っているのかな」
「五百旗頭さまには、身元を一時的に引き受けていらっしゃるかた、としかお伝えしておりません。加瀬先生だとはご存知ないと思いますよ」
「こんな、どこにでもいるような弁護士の名前なんてねえ。あまり偉いおかたの前で、先生などと呼ばれたら、わたしもやりにくいから。そこだけはよろしく頼みます」
残り時間は充分過ぎるほどある。ゴールを決められた相手方は淡々と構える。試合はまだ終了していない。
「まあまあ、先生。さすがに謙虚でいらっしゃる。では、あえて申し伝えないようにいたします。当日、よろしくお取り計らいくださいますよう」
会話が終わったかと思ったその時、聞こえるはずのない声がした。
加瀬が周りの三人に、手のひらを掲げてみせた。
それぞれがうなずく。
そのまま、通話と、こちら側の沈黙を継続させておく。
「やったな、橋田」
スピーカーにしていたのは、向こうも同じだったのだ。
「何のメリットもなしに、引き取るわけはない。小僧に隠し遺産を持たせているかもしれん。本当のところ、五百旗頭の馬鹿息子も、それが狙いだろう。なんとか、その前におれたちで吐き出させないとな」
引きのカメラは、試合の様子を撮り続けている。ボールの奪い合いで、一見、何も進んでいないようでもある。
「山中社長も、よく、あの小僧が石倉だと気づきましたね」
「まあな。海岸沿いで、たまさか、でくわしてな。どこかで見た顔だと思ったんだよ。もしかすると石倉の……と。後をつけると、あの食堂に入っていくじゃないか。ところが、お前と二人で行ったとき、加瀬がいて、小僧の姿はない。おまけに、あの女とできていやがった。ピンときた。こいつは、加瀬のところにいるな、と」
「それでこの間、旅行で不在のところへ、わざわざカマをかけにいったら、まさにその通りだったというわけですね。ブラフがばれるかと思いましたが、その前に爺さんが激怒したので、なんとかなりましたよ」
選手たちの写真や、名前が画面に表示される。
簡単な経歴だとか、過去から明日を推しはかるための材料をもってきて、今現在の試合の行方を占う。
「ただ、想定外だったな、爺さんは。てっきり小僧を嫌っていると思っていたが、やけに情に厚いやつだ」
「あの爺さんには、古めかしい義理人情ってものがあるんでしょうね。ところが、ごらんなさい、加瀬は、所詮あんなものです。ご丁寧に、貧乏なふりをしようとしているのか、自分のことはただの身元引受人だと伝えろってね。そのほうが、憐れんでもらえそうだと計算しているんですよ。変に頭がいいもんだから、いやらしいったら、ありゃしません」
「あとは、いくらこっちに取り分が回ってくるか、だよな」
押されていたチームのメンバーは、相手の動きに、ゆったりと対応していた。まるで戦意が喪失したようにもみえる。
しかし、これは計略であろう。
メンバーたちの目が光っている。
盛り上げるだけ盛り上げさせておいて、その勢いが減衰する機をはかっているのではないのだろうか。
「しかし、あの女、素直に山中社長になびかないと思ったら、ああしたわけがあったんですね」
「縁もゆかりもない土地だからな。ひとりそこに女を作っておけば、色々と捗るだろうと思っていたが……。都落ちした、あの優男がついていたというのは、いささか想定外だったな。少しはおれたちを恨んでいるかもしれん。顧問先がひとつなくなったわけだし、都会にいられないようになった理由でもあるだろうし」
選手たちのユニフォームには、あちこちに、スポンサーの名前が記されている。どれも有名なものばかりで、これ以上宣伝する必要があるのかと思うレベルだ。
「まあ、あの小僧をよそに面倒見させて、そのことで恩を売れば、悪いようにはなるまいよ。なんなら、いくらか金を引っ張って、つかませればいいだろう。頭がいいんだ。よく考えれば、かえっておれたちに加勢してくれるはずさ。口では綺麗事を言ったって、内心なんて、知れたものだからな」
スポンサーたちの狙いは、知名度を上げることではない。
社会に貢献している、文化を庇護しているというアピールをしているのだ。イメージを叩き込むための宣伝は、実際の金の動きより、結果もとらえにくい。ただ、見えないところで、それが次の利を産むもとになる。
それぞれの思惑がグラウンド上を走る。
「ホテルに呼び出すことができた時点で、おれたちの勝ちは決まったようなものさ。あとは、普段何もしない五百旗頭の息子に、大上段に構えてもらえばいい。こんなときぐらい働いてもらおうぜ。……なあ、橋田よ、ちょっといい女見つけたんだ。お前にも良さそうなのいたし、いまから店に行かないか」
「好きですねえ、社長も」
加瀬はしっかりと通話を終了させ、二、三度操作して、間違いなく繋がっていないのを確認してから、手を叩いた。
加瀬老人は、酒器と一升瓶を持ってきた。
「まず一献。史、しっかりやれよ。景気づけだ」
「ちょっと早いが、祝い酒といったところか」
おれにも、かたちだけ盃に口をつけるようすすめられた。言われた通りにする。
「よし、見ておれ。長一郎など取るに足らん」
テレビの音が出る。
さっきまで劣勢だったチームが、点を取り返した。
歓声が響く。
二人はその夜遅くまで酒を酌み交わしていた。
雨はいつの間にか止んでいた。
おれは聞きそびれた。
アルバムにあった、壇上で花束を受け取る加瀬の姿を写した一枚は、どういったときのものだったのか、と。




