回折:祝い船・3
黒と白。背に浮かび上がる一ツ紋。
わずかな明かりの拝殿内。
三々九度の盃を受け取る加瀬史は、そのとき、まさしく石倉そのものであった。
立ち居振舞。うつむき加減になった横顔。これほどまででありながら、その背に、袖に、胸に石倉の紋を持つことのできなかった男の姿を見つめる。
式は、例のプロポーズから半月も経たずに行われた。加瀬老人が強引に一切まとめてしまったのだ。入籍も済ませたのだが、役所への手続きまでつきっきりで、急ぎに急いだのだった。
「史は、間が悪い」
そのひと言には、誰も逆らえなかったせいもある。
式は進み、親族固めの盃が終わると、向かい合った先のるみと目が合い、互いに笑みを浮かべた。
拝殿から退出すると、カメラマンが待ち構えていた。新郎新婦を中心に一同が集まる。
薄曇りの日。数えるほどの参列者。風もなく、すべてが動かない一瞬。
ずっとこのままであればいい。
おれは心の底からそう願った。
カメラマンの掛け声で、撮影の緊張が解ける。
披露宴へ向けて移動が始まった。
加瀬は少し振り向き、おれの顔を見た。そして、はにかんだような笑みを投げる。
淡い太陽光をストロボに、おれのまぶたをシャッターに、たしかに時が切り取られる。
石倉邸の大広間に掲げるべきだった肖像画が、胸のうちに出来上がる。いつか見たはずの遠い記憶は、この既視感か。最早ここに至っては、家紋の有無は何の意味もなさない。
足下の玉砂利の音。儀式の済んだ後の庭を振り返る。
手水舎の、整然と並べられた柄杓。溢れゆく水。時折鳥が鳴く。後からやってくる他の参拝客。神職たちが入ってゆく、社務所の脇。光を受ける常緑の木の葉。静けさがあたりを取り囲み、おれは、そこへ溶けこむような恍惚の感に溺れる。
太陽は確かに頭上にあるはずだった。しかし、雲が遮り、その腕は姿を顕さない。
新郎新婦がリムジンに乗り込むのを見送って、おれはマイクロバスの入口に足をかける。
遠去かる。今さっきまで、あのあたりにいた皆の影が、時に取り残されている。そこからもう動かない。過去はいつまでも同じところにあり続ける。いつかまたおれがそこに立ったとしても上書きされていくだけだ。
すぐ脇で、加瀬老人は静かにうつむいていた。噛み締めるように、じっと目を閉じている。時折軽くあたりをうかがい、すぐにまた眠ったようにする。
他の座席では皆揃って談笑しているというのに、かれだけがここにいる。それはきっと、今日の出来事を思い返しているに違いなかった。
あの、仄暗い拝殿。
淡い明かりのなかで白無垢を着たひと。
ついぞ花嫁衣装をまとわず、この世を去った娘のこと。
そして、ようやく、紆余曲折を経て、所帯を構えた孫のこと。
かれの願いはささやかでありながら、そこへ至る道程は、苦渋に満ちたものであった。
長年のやるせなさを隠すには、紋付袴は、うってつけの黒。
車は順調に進み、披露宴の開かれる料亭に着いた。
しばらくの休憩の後、他の漁師仲間なども続々集まってきた。
かれらも、ひとり残らず、加瀬と新妻の過去を知っていて、見ないふりをしてくれる。
子供はるみとおれしかいないので、必然的に近くに席がある。
「るみちゃんのママ、きれいだね」
「でしょう? るみも、いつかあんなふうになりたいな」
「きっと、とてもかわいいだろうな」
おれの子ども用のスーツは、加瀬老人が用意してくれた。るみのものも同様である。
「いつか、るみを、良ちゃんのお嫁さんにしてくれる?」
「もちろんさ! その時は、十二単を着せてあげるよ。おひなさまと同じに」
「ほんとう?」
「ああ。ほんとうだよ。ねえ、ぼくらも三々九度をしよう、あの盃のやつ。子どもだから、ジュースでいいよね」
傍にいた漁師仲間がそれを聞き、大いに喜び、周りと騒いで、るみとおれのグラスに三度ずつ飲み物を注いでいった。
都度グラスを取り替え、大きいサイズにしていくというところまで、仲居さんをつかまえて執り行ったのだ。終いには、とうとうジョッキになった。
加瀬と新妻は、それをほほえましく眺めていた。めでたい、とはしゃぐ周りのなかで、るみもおれも、加瀬に負けず劣らず幸福だった。
翌日には、漁師一同で企画した、祝い船と称した満艦飾での海上パレードに参加した後、二人は新婚旅行へと出かけていった。




