楽しき我が家・2
玄関から音がして、人が近づいてきた。訝しみながら現れたのは、石倉眞波、おれの妻である。
「おかえり」
軽く振り向いてものを言うが返事はない。
崩れかけの化粧、やや乱れた髪のすそは、巻いた毛先の形を維持できなくなっている。
それでも、ドレッシーなスーツは、その美しい肢体に飾られてあった。
「めずらしいのね」
「きみ、何か話があると言っていたろう。週末はゴルフへ行くだろうから、こっちかな、と思って待っていた。都心からでは遠すぎるものね」
眞波は、疲れた表情で、離れた椅子に腰掛けた。
「お察しの通り、明日はゴルフよ。専務ともなれば、それも仕事のうちじゃない」
「わたしはどうもゴルフはだめだし、他の人たちだって、美人のきみが行くほうが、楽しいに決まっている」
おれが久々に袖を通したナイトガウンは、着心地も悪くない。
「気の利いた家政婦さんをいれたね。酒に合うつまみも用意してあったから、いただいているよ。これは、棚の中がすっかり入れ替わるくらい、量もすすむはずさ。味がいい」
「別に、メールでも、電話でも良かったのだけど」
「つれないね。きみと二人、話をしたかったのさ」
テーブルの下からのぞく、組んだ長い脚がなまめかしい。
「試したこともない、素敵な酒のチョイスだ。きみの趣味か? いま飲んでいるものもなかなかだし、どうだい、一緒に」
眞波の視線がラベルをとらえた。驚いた表情をしている。
「明日ゴルフなのだし、もう飲めない」
さらに自分のグラスに酒を注いだ。少し水を加える。
「ところで何かな。話というのは」
「妹の、さなえの縁談がほぼ、まとまったの」
「よくお義父さまのおめがねにかなう人が見つかったね。お相手はどなたかな」
眞波が言い淀んでいる。目が泳ぐのを見るのは初めてだ。
「アズマ・マリンレジャーのご子息、東翔太郎くん」
「それはおめでとう。お祝いは何がいいかな」
「何も言うことはないの? 何とも思わないの?」
「祝福するばかりさ。大切なのは当人たちの幸せだよ」
おれはグラスを傾ける。眞波のため息が聞こえた。
「ライバル会社なのよ、わかっている?」
「石倉はあくまで貨物がメインだよ。業種が違う。アズマさんというところは、最近特に伸びている。すごいよな」
眞波は立ち上がり、水を飲んだ。
「いま、翔太郎くんは、父の会社にいるの。つまり、イオホテルの本部で修行中ってこと。あるプロジェクトが成功したら、晴れて正式に婚約。それを助けてやってほしいと言われたの。父から」
両手をテーブルについて、体重をそこにかけ、おれを見ている。
「だから、わたし、石倉海運を辞める。イオホテルに籍を置くわ」
おれはグラスを置いた。
「それはよしてもらいたい。石倉はどうなる。大体お義父さまも、当人が一人でどうにかできなければ、認めない、それほど厳しいかただろう。なぜ」
眞波の父、五百旗頭欣二の面影がよぎる。その華やかな容貌は、間違いなく、おれの眼前に立つ女にだけ受け継がれていた。
若い頃から、スーパーモデルのスカウトをかわしつづけ、縁談は降るほどにあり、断るのに数の面で難儀したという、美女。
「離島に進出するのよ。なかなか大変なところ。しがらみがすごくて、地元の有力者がどうにかしてくれないと、まとまらないのよ」
「どうせ政治家絡みだろう。財力で片付ければ済む。違うかい」
「もっと面倒なのよ」
「それ以上、聞くまい。イオホテルの問題だ。きみが辞めるのは認めない。いいか、きみは、石倉海運の顔なんだ。きみ以上に適任はいない。後任など誰にもつとまらない!」
グラスの中身を飲み干し、ゆっくりと立ち上がる。そのときはじめて、酔いが回ったと気づく。ボトルの残量に、しずかに驚きながら、眞波に近づいていく。
狼狽とかすかな怯えの色が、眞波の瞳に浮かんだ。
「けれども、きみには、そろそろ家にいてほしかったりもする。わたしたちは、いつ、ほんとうの夫婦になれるのかな」
おれは眞波の服の下を知らない。一度も触れたことがない。子どものいない理由をそっと引き受けさせられても、黙り通してきた。
眞波は、何故おれをわざわざ選んだのだろう。
「むごいようだが、きみも、もう若くはない」
後ずさる眞波の、紅潮した肌と、白い壁紙のコントラスト。両腕で行く先を阻む。
「何故わたしを選んで、拒み続けている」
眞波は手でおれを押し戻そうとするが、どうにもならない。抱きしめるかたちになる。
「波留の縁談もまとまりかけているのよ。どうするつもり」
近づけた顔を、眞波の首筋から離す。
「役に立ってくれるわ、きっと。お相手は、国会議員、大鳥先生の息子さんだものね。X県のかたよ。ピンとこない? ホテルも、その地元に作る予定なの」
どこか嘲るような物言いを聞く。
「どうやら、ひとこともなかったようね。そうよ、言い出しにくいもの。くやしいでしょう。あなたのいうことにだけは、従順になるようにしてきたのに。一生、あなたのなぐさみものにするつもりが……」
手を下ろした。
「後見人なんていう立場を利用して、自分の女にして。好き放題じゃないの。波留とわたしはいとこだけれど、あなたにとっては、血の近さは同じよね。せいぜい、高貴な子どもとやらを、波留とでも作ったらいいのよ。まあそれも、もうできないお話だけれど」
言いたい放題の眞波をどうすることもできず、そのままにしている。挑む気も、すっかりくじけきってしまった。
乱れかけた衣服を隠し、足早に眞波は部屋を出ていく。
外で寒風の吹く音がする。
きっと明朝も、おれはひとり目を覚まし、誰もいないこの家に鍵をかけて出ていくのだ。