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回折:祝い船・2

 小さな蟹が道路へ出ようとしている。おれはそれを捕まえて水辺へ戻す。


 貝殻だらけの、引き潮のみぎわ。るみはしゃがんで、命を散らさずに済んだ、蟹の行方を見送る。望み通りにはいかなかったかもしれないが、生き物としての領域を超えたことによる死は免れたのだ。


 あちこちの防波堤の側に、船着場の辺りに、白い網が掛けてある。海苔漁のない、この季節の陽気で乾かすためだ。


 毎日は太陽と海とのあいだにあった。


 勉強などは必要最低限に留めて、考えることも面倒になってしまった。もうしばらくすれば、今までの、詰め込まれた知識のストックも尽き、利口だの聡いだのといわれなくなるだろう。


 日なた水のなかに波紋。得体の知れぬ微小な生命たちが、このささやかな場所にうごめいている。


 おれには夢も希望もなく未来もない。日々を生きる、そのときただいまの人になりきって、時の日なた水の内側。


 遠い都会のことなど忘れて、沖を行く貨物船の汽笛を聞く。


 いつしか、ここに住まう自分も、潮のふいた屋根瓦のように海辺で朽ちていく日が来るのだ、と思うと、心は安らいだ。


 間近の水面は波ひとつたてず、太陽光と交わる。


 流木に刻まれた古人いにしえびとの言葉も、どこか遠い街の看板も、はたまた誰かに贈るつもりでいた装身具も沈んだまま。のぞき込んでも、もうわからない。そのまま深い眠りにつかせてやればいい。


 休みのたびごとに訪うのが常となった、るみのいる町。憚ることもなく、加瀬は車でここへ当たり前に往来する。


 おれはるみと遊び、好きなときに店舗兼住宅へ戻る。


 道端に生える草花に不思議を見出す。それだけで、何やら楽しいような気もする。日々は、そのように過ぎていっていいのだ。


 右と左どちらを行っても、たどり着く先は変わらない。無意味な分岐の手前に、男が立っていた。自動販売機の前で何やら苛ついている様子だった。


 その時、ふとこちらを振り返った。


「やあお嬢ちゃん。お母さんは元気かな」


 山中だった。


 おれは顔を正面から見られた。


 急いでるみの手を引く。


「なんだこの小僧は。小蝿が寄ってきたかと思った」


 そのときまで、おれはこのような侮辱を他人から受けたためしはなかった。あまりに無礼と思う反面、山中という男が何を見ていたのか、あきれ果てながらも悟った。


 近くに停めてある、県外ナンバーの高級外車。かれの腕に飾られている金の環。身なりは今や、おれよりかれのほうが格段に良い。


 しかし、ここにいるのは、変わりなく、かれとおれだ。以前は、慇懃いんぎんにも、坊ちゃんなどと呼んでいても、その程度のものだ。


 かれの背後の山かげには墓地がある。昔から落人がなりを潜め、そこで生き延びたとされる集落もあったという。


 おれはそよぐ風をからだじゅうに受けながら、かれに逆光の当たるのを眺める。


 おれは存外、山中のことを恨みには思っていない。かれにはかれなりの人生があり、生きていくにはそうしたやりかたを取らなければならなかった。まして、いまのような状況になってもなお、金を追い求めるのをやめようとしない。その業の深さに、哀れみさえ覚えた。


「行こうよ」


 挨拶する価値もない。るみを促す。


「さて……なんだか見たような覚えがあるな。おい、お前、どこかでおれと会ったことあるだろう、おい!」


 その言葉を背中で受け流す。


 昼下がりの太陽は夏の始まる前の表情で、おれへ光を投げる。


 海のきらめきと同じ色になった、アスファルトの道路を二人して走る。


 確かにそのとき、神代に閉ざされたはずの、海との道は開かれ、おれたち二人は陸にいながら、波の上を渡る人になる。


 そしてたどり着いたるみの家。海からすぐの曲がり角。古いものながらも、清潔にやり替えた店のなか。るみの母は当たり前のように、おれたち二人の面倒を見る。加瀬は、るみの母の両親によく尽くす。


 ここいらに家など借りて、皆で一緒に暮らす日がすぐに控えている。


 やがて陽は落ち、安らぎのための夜が訪れる。もう少し、もう少しだけ沈まずにいて欲しいと願うおれも、あの頃、二度と昇ってくれるなと涙を流したおれも同じ。


 やがて加瀬も戻る。四人で食卓を囲む。るみの母の味付けは、さして洗練されてもいない。単なる家庭料理の域を出なかったが、箸使いのあまり上手くないおれでも食べやすいように、あちこちに工夫してあるのだった。


 この土地特有の甘い味付けにも慣れてきた。そもそも洋食がメインで、醤油を日常的に用いなかったのが良かったのだろう。


 よく冷えたビールの瓶の蓋をそっと開け、るみの母は加瀬に注いでやる。


 ドラマのワンシーンを目の当たりにしたようで、そのさまについ笑みがこぼれる。


 初めて会った頃のような、厳しい表情の加瀬はもうそこにいない。時折、もののついでで、弁護士としての資格を活かした仕事を少しするだけで、あとはるみの母の周りのことをよく世話している。


 寒くなり、海苔漁の季節が始まれば忙しくなるのだろうが、そうなれば、もっと快活な様子を見せてくれるのではないだろうか。


「史さんの夢って何?」


 おれの問いかけに、まず返すのはやわらかな笑み。


「いまのように、過ごすことさ」


 高い襟のワイシャツは、祖父母の家の箪笥の奥深く眠っている。今はゆとりある首もとの綿の一枚を身につけて、くつろぎの風合い。


 るみの母親の話は、地元の平和な報せばかりで、焦るように生きる、野心まみれの男の姿など、論ずることもない。


 この町では昨日と今日とが繰り返されていき、時流というものをもってしても、一切それらは不動。


 町並みと同じ灰色のはずの都会では、夢と理想とやらが、いつとも知れない明日を追いかけさせる。


 あらゆるメディアは、目標を持つ大切さを声高に説き、向上心のなさをなじるよう仕向けるが、おれは夢のない人生の安らぎと幸福を実際目の当たりにして、その一部になる楽さ加減を知ってしまった。


 財産を築いた、人を何人使う立場になった、大邸宅で過ごした……それらのものごとは、もはやどうでもよい。


 夜空に嘆きの星座を描き出すこともせず、間近に控えた、加瀬たちの結婚の祝いの日を、目下楽しみにするばかりであった。

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