回折:祝い船・1
波と、目の前の道を行くいくつもの車の、走り去る音が聴覚を彩る。
「じゃあ、すぐ戻るから」
「ありがとう。よろしくね」
古い障子に映り込む影は、ホームドラマの父親役と母親役のそれで、るみと一緒にいるこの空間も、同じ物語の棟続き。
いつからあるのか知れない、古い卓袱台の上で、おれはるみの勉強などみていた。ときに、息抜きで鶴を折って遊んだりもした。
昼食時が終わりに差し掛かり、客の気配もなくなる。
加瀬はこの店舗兼住宅をあとにした。るみの祖父母たちを買い物へ連れて行き、かれらの家へ送ってくるためだ。
この狭い部屋の隅の小さな棚には、るみの読む児童書があり、どれも平和な題を背表紙に記されている。それらはるみの瞳の中にあるが、もっと幸福な一冊の本の中に、おれたちは存在しているのだった。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
「や、どうも」
椅子を引く音の不快さ。
「ねえ奥さん。今日は、あなたの意向をうかがいに来たんですよ」
テーブルの縁から、おれの折った鶴が落ちた。あまりに軽いそれは、少しの振動で、望みもしない所へ追いやられる。
「悪い話じゃないでしょう。有名なお金持ちのかたが、ここいらに、福祉を目的にした学園をお作りになる、そうしたご予定なんだ。変な開発ではない。そこでね、この一帯を買い取りたい。もちろん市価よりずっと高く。何回も申し上げるが、このことに間違いはない」
人差し指を唇の前に立てて、るみを見た。そして、音をたてぬよう障子を少し開ける。
るみの母の表情は見えない。少し離れたところに立って黙っている。男は後ろ姿だけ認められるが、妙に貫禄があり、その恰幅の良い体を椅子に収めきれずにいる。
「そういうことは、町全体で足並みを揃えませんと……。わたしのところばかり抜け駆けというのはちょっと」
「仕方ない。あなたにだけ教えましょう。そのお金持ちとは、五百旗頭一族の長男さんなんですよ。知りませんか? 代々続く立派なお家柄の、次代となるかたです。わたしは特に、そのかたとお付き合いがあるのでね」
五百旗頭。おれはその苗字を知っている。石倉の分家にあたるところだ。まさか次代とは。猛の取り巻きの一人ではなかったか。
「だからね。奥さん。わたしに何もかも任せてみなさいよ。わたしから頼んで、あなたをその学園の、そうだな……給食センター長になど、して差し上げることだってできる」
続いて扉が開き、別の男が入ってきた。そして先に座った男の前に腰を下ろす。
「わたしからもお願いしますよ。このかたはね、都会のほうでは相当に名前の通った御仁でね。何も心配することなんかありはしませんよ」
「まあまあ、そういうことは黙っておこうよ、橋田くん」
にわかに空が暗くなった。少し遅れて雷。強い雨の音が続く。
「いけないな。着くまで待ってくれよ」
加瀬が慌てて入ってきた。そして二人の姿をみとめると、カウンターの端に座った。
「奥さん。わたしはね……。正直に言おう。あなたを女として幸せにしてやりたいんだ。その一心なんだ。そのために偉い人に掛け合って、あなたを困らぬよう自立させてやりたい。いい加減受け入れてくれないか」
橋田は手を叩き、声を上げた。
「さすが山中社長。男ですよ。……奥さん、あなたね。港のことなら山中、といわれるような御仁に請われて、断る理由なんてないでしょう」
「あるんだな。それが」
加瀬が立ち上がる。ゆっくりと近づいていく。
雨音は激しさを増していく。
「せ、先生……」
橋田はうろたえている。山中は黙ったままだ。
「しばらくぶりじゃありませんか。いやだな、水くさい」
「橋田さん。まさかこんなところで再会するとは。実にロマンチックですな」
雨音は妙な具合に変わっていった。霰か雹か、空の激しいパーカッション。
「その、なんというか、誤解だよ」
山中は、半笑いのようにして手を振ってみせた。
「どういう誤解なんでしょうね」
おれには加瀬の表情ははっきりと見えない。ただ、手を動かし、るみの母親を二、三歩退がらせるのがわかった。
「加瀬先生。あの、やはり、明日のことを考えて生きていかなきゃいけない、とわたしは思うんですよ」
橋田の言葉に、山中は小刻みに首を縦に振る。
「わたしだって、何の責めも負わなかったわけじゃない。社会的に、充分じゃないか」
「そうですよ。山中社長とのこと。昔のことは水に流して……いや、むしろ、新しいことを考えて、互いに手を取り合って、生きていこうと。わたしはそういうつもりでいるんです」
橋田は、加瀬にしっかりとそう言い切った。
「別にあなたがたがどうあっても構いませんよ。もう例の件は法的に片付いたんですから」
橋田と山中の緊張が緩んだのが、遠目にもわかる。
「山中さん。土地の交渉はいいとして、男と女の話は、よしてくれませんか。わたしの妻になる人なんだから」
おれはるみのほうを見た。驚きながらも笑みを浮かべている。それは互いに同じことだった。
「ほう。そういうことか。相手がいるなら、わたしもすっぱり退こうか。そんなに無粋な男じゃないからさ」
山中は両手を軽く上げた。
「先生。いろいろお手柔らかに頼みますよ。山中社長の再出発も兼ねているんですから」
橋田に向かって、加瀬はそのままの姿勢で対峙し、告げる。
「以降、この一件は加瀬が交渉にあたります。名刺はお渡ししていますよね。橋田さん。電話番号は変わっていませんから、そちらへよろしく」
橋田と山中は、そそくさと立ち去っていった。かれらの出て行った後、加瀬は暖簾をおろし、鍵をかけた。
二人が抱き合うのが視界に入ると、おれは障子をしっかりと閉め、るみとうなずきあうのだった。




