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ポセイドンの領域・2

 通されたさきには、意外な人の姿があった。


 渋い赤を基調としたデザインの向こうに、隠された都会の風景。


 どこかクラシックな装いをした、五百旗頭いおきべさなえ。


 東知之は、いつも通り陽気に構えておれを迎え入れる。


 緊張した面持ちの若い男を手で示しながら、ビジネスマンと私の部分を交えた、はにかんだ笑顔を見せる。


「息子の、翔太郎しょうたろうです」


 伏し目がちになって頭を下げる翔太郎は、さなえのすぐ横にいる。


「はじめまして。よろしくお願いいたします」


 店内に静かに流れるピアノ曲より、もっと控えめにものを言うのは、かれの性分のなせるわざだろうか。


「石倉です。こちらこそよろしく」


 おれから笑顔を向けてやる優しさの必要は、ないはずだった。気取りが右手をかれの前に差し出して、握手までするのは、やり過ぎだろうか。


 そうでもしなければ、食前酒までもたどり着けなさそうな、真冬の宵の口。それぞれの腕時計の高級さを競う前に、おれは能天気な人になってみる。


「さて、東さんのチョイスなら、間違いなくおいしいものしか出てきませんね。今日は何があるんでしょう」


 東はほっと一息つくような表情を隠しきれない。給仕に合図して、各々の席に着く。


 向かい合うのが翔太郎というのは、いささか気の毒なようでもあった。かれのぎこちない様子は、きっと後からひどい肩こりをもたらしかねないほどだ。


 運ばれた食前酒は、さなえとおれが同じカンパリソーダ。その赤さの向こうに、互いが透けて見える。


 瞬きと酒が喉を通るあいだ、今日の話題を探す。


 この顔ぶれでの会食の理由。イタリアンのテーブルマナーのやさしさは、東の、翔太郎へ向ける愛情の表れ。


「お二人の式ともなれば、とかく盛大に行われるでしょうね。さなえちゃんも、心弾む毎日を送っていることだろうと思っていますよ」


 東は赤ワインの渋みのせいにして困り顔と微笑みを混ぜている。


 カトラリーに閉じ込められた自分の虚像が波留と重なり、あの後の安堵したさまを思い出させる。


 大鳥おおとり哲人(てつんど)夫妻は、蔵人の運転で移動中に、地震による土砂崩れに巻き込まれて死亡した。


 当の蔵人も重傷であり、いまだに病院のベッドで意識の戻らぬまま眠り続けているという。


 縁談はもちろん、このままお流れで間違いない。


 波留は、良かった、とははっきり言わなかったものの、考えていることはおれと同じであろう。もうその件で悩まなくて済むのだ。


 そして、おれを槍玉にあげる心づもりでいたはずの、五百旗頭一族からの追求もなくなる……。


 翔太郎はおずおずと、上目遣いにおれを見る。作り笑いでもいいから、この怯えた男にやさしさを投げてやらなければいけない。かれの人生がかかっているのだから。


「可愛くて、素敵な若奥さまになるよ、さなえちゃんは。翔太郎くんは幸せ者だね」


 今日の空に星は見えない。一日じゅう、冬らしい灰色の雲がかかりつづけて、月明かりひとつ届かないのはわかりきっている。


 わずかに開いたカーテンからのぞく、切り取られた都会は、ネオン鮮やかに、ここぞとばかりにはしゃぐ。その切れはしがさなえの頬を撫でようとするが、室内の照明に負けて届かない。


 東のほうを見やると、唇を噛み、目をかたく閉じてうなずいた。


 食事が運ばれてくる。おれ以外黙々と手をつける。ピアノ曲の最も小さい音まで拾えそうだ。


 さなえの様子をうかがう。いつもの高飛車さはどこへやら、ナイフとフォークの動きに集中している。


 おれはこの義妹の容姿をみとめるたび、いいようのない感情にのまれてしまうのだ。


 スーパーモデルのスカウト、降るような縁談、それらをもたらした、あの輝く美しさを持つ実の姉。つまり眞波と同じ家に生まれついたということ。そしてまるで似ていないということ。


 まなみが長い髪をつやめかせれば、さなえはショートカットで快活に見せる。


 一般的には、さなえも美人の部類である。ただ、あまりにも比べられる相手が悪かった。


 もし、もう少し愚かであったら、その嘆きを表出させて訴えることができていたかもしれない。


 ところが、悲しいかな、さなえには審美眼もあり、利口だった。眞波と張り合わない途を選ぶ知恵があったのだ。


 それだけに、おれは、自力ではどうにもできない立場にあるこの義妹の、幸福を願うのだった。


 姉よりも地味な顔立ちを飾る、真珠が放つ鈍い輝き。海の底で眠りつづけた歳月は、どんな夢をみせてくれたのだろう?


「別に、わたしが御破算にしたわけではないよ」


 三人は手を止めた。翔太郎はカトラリーで音を立ててしまい、ばつの悪そうな表情をして、おれの顔色をうかがった。


「当人たちの同意が取れていないのがわかったから。もし二人が好き合っていたなら、ああしたことにはならなかった。わたしが特別何をしたわけでもない。誤解はといてもらえないかな」


 さなえは皿の上に視線を落とした。


 おずおずと物を言い始めたのは、翔太郎からだった。


「正直、わたしは、別れさせられるのではないかと思っていました。波留さまのことについて、そうしたように……おっしゃったようにとらえていました。けれども、今のお言葉で、考えを改めることにします」


 翔太郎のスーツは、仕立てからして、おそらく東と同じ職人によるものだろう。気負い。それがかれに馴染ませない理由を作って、衣服に着られている。


「東さんにはお伝えしているけれど、二人のことで、わたしを気にする必要なんてない。自分たちの幸せだけを考えて欲しい。なんなら、石倉よ、邪魔をするなら許さん、というぐらいあったっていい」


 翔太郎がおれの瞳をのぞきこむ。


「そ、そんなことは……」


「大鳥先生なくしては、とても、父の出した結婚の条件が達成できないの」


 さなえが、ひとりごちるようにこぼした。


「何らかの条件を示されたわけだね。それがだめなら諦めるの?」


 おれはやさしく、さなえに問いかける。そして合間にカトラリーを動かす。それを追うように、めいめい、食事の続きをする。


「条件ね、そのくらいなさるさ。誰が誠実で誰が財産目当てかなんて、すぐに見抜けるわけないじゃないか。ただ、後者だった場合、必死に取り組むはずはない。ふりをするだけだ。そんな芝居は、本物の実業家の目は欺けない」


 ゆっくりとフォークで料理を口に運ぶ。


 奇をてらうこともない、正統そのものの味だ。


「しかしね、却って心配いらないだろう。懸命に取り組んでいれば。もっとお父さまを信じてみてはどうかな?」


 おれの言葉のあと、東は給仕を呼び、ワインを注文する。グラスに赤いものが満ちていき、芳香が広がる。


「どこまでやれるのか。そんなことはわからない。きっとやってくれるだろうと。可能性というやつを信じるしかないんだ。とことん、何があっても、子どもを信じてやれるのは、親しかいない」


 そう断言した東は、若い二人に笑顔を向けた。


 目の前にあるものが高級な料理であっても、そうでなくとも、きっとこの親子は幸福を味わうことができるだろう。


 おれのすぐそばに家族がある。一生かかっても手に入らない者もあり、生まれながらに当たり前として授かる者もある。そこになんの差があるというのか。


 東はおれの真横で一人の父になり、息子へ変わらぬ愛情を注ぎ続ける。


 テーブルの上のグラスにはそれぞれの好みの飲み物が入っている。この透明な仕切りの恐るべき遠さ。斜め前の、ワインの入ったふくよかなグラスに手を伸ばすまっとうな理由は、おれにはない。


「そうよね。大鳥先生ご自身ではなくて、どなたか代理のかたにお話を続けてもらえばいいのよ。一緒に探しましょう。時間がかかったっていいじゃない。地道に、一歩一歩、続ける人には勝てないものよ」


 さなえは、翔太郎に語りかける。


 東とは違ったむきの翔太郎は、そっとさなえの提案を受け入れ、微笑みをその表情に描き出した。


 虚勢を張るわけでもない。妙なプライドの高さが、相手の意見を邪魔することもない。この、人の良すぎるような素直さに、さなえは惹かれたのだろう。


 きっかけは仕組まれた縁談だったとしても、不幸の要素はどこにも見当たらない。


 おれは食事を続ける。


 飾りのない、古めかしい料理は、ひとつ味が足りない気配で、次のひと口へと急がせる。


 そして、気づけば、あっという間に皿は空になっている。


 コース終わりのエスプレッソは、いつまでも口の中に残り、去り行く若い二人のうしろ姿を見送ってしまうまで、かぐわしさを保っていた。

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