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ポセイドンの領域・1

 いつしか波のまにまに消えた憧憬。飛沫のひとつ、たどり着いた先は遠い離島。


 父親は頭を抱え、母親は椅子でうなだれる。

 

 花咲く日も次の季節に控えた著莪(しゃが)の群生は、明日への焦燥に駆られた男によって踏みにじられた。


 振り下ろされる槌。髪を振り乱し、両掌が血に染まっても、その動きはとどまるところを知らなかった。


 砕かれた石のかけらが、月明かりに照らされて、透き通るかのように静かに輝く。


 テーブルの上のグラスのなかで、真冬の権化がその角をとかしながら、琥珀色と戯れていた。


 液体から棒を引き抜き、またアイスペールへ戻す。


「蔵人くん、本当にそんなことをしたのかよ」


 ソファーにからだをあずけて、ベッドにうつ伏せになった由花子の、なだらかな丘陵を見つめる。


「皆驚いた。あのおとなしい蔵人さんが、まさか、祠を壊すだなんて」


「気持ちはわからないでもないが、やっていいことと悪いことがあるな」


「波留さんと出会ったきっかけが、先の奥さまの建てた祠」


 気怠そうにおれのほうへ向き直って答える。


「そして、縁談がお流れになる理由が、先の奥さまとの血のつながりの濃さ……皮肉ね。今の奥さまのことを実の母親と思って、本当に仲良くなさっているのに」


「とかく、うまくいかないことばかりさ」


 おれは、薄く作った水割りを呷った。


「良ちゃんは、石倉海運の社長さんだったのね。そんなにすごいお金持ちでも、うまくいかないことなんてあるの?」


「おれの人生、失望まみれさ」


 由花子の肢体には、若さが隅々まで満ち、溢れこぼれんばかりの未来を、その身のうちにたたえている。選び取ることのできる自由と、それに気づかぬ思慮の至らなさ。一切をひっくるめて、おれにはまぶしい。何もわかっていない無邪気さに男として向き合う、小狡(こずる)い自分自身まで、その光にのまれる。


 輝きに溶けながら、おれはその光源に一つの面影を見る。選び取れなかった未来のおおもと。まだおれが子どもだった頃の恋の芽生えを。戻り道のない、過去のかなた。平和の物語に綴じ込まれてしまったあの子が、由花子の肉体を通して蘇ることを祈りながら……。


「でもね。文句を言ってもいけない。幸せでございますと、世の中の片隅で小さくなっていなければいけないのさ。金があるのに不幸だなんて、誰も許してくれない」


 都会の明かりに照らされる機会すらない、暗闇の中の人生。雲に隠された星。遠すぎて存在を知られることもないであろう、大きな星。人知れず爆発して散ったものもあるはずだが、命のあった証すらどこにも残っていない。


「たしかに、金がないっていうのは不自由の元なんだが、あればあったでまた同じだ。結局何も変わりはない。金だけが頼りの人っていうのは、案外、幸せなのかもしれないな」


 知らないうちに、由花子のまぶたは閉じられていた。夢の真っただ中にいるのだろう。おれは上から布団をかけてやり、その寝顔を眺めた。


 その途端、テレビが、スマートフォンが、異様なアラームを鳴らした。由花子も目を開ける。


 地震速報であった。


 画面に震源地付近が表示される。由花子の故郷の島だ。地図には津波の危険性を表す縁取りを施され、警戒の必要性を示す。


 ところが、ほどなくして、海の底に原因があるものではないとわかる。明らかに島内である。


「これ、わたしの家とかがある場所なんだけど……」


 幸い由花子の両親とはすぐに電話もつながった。運良くX市内にいたため、問題はないという。とりあえずその夜は眠りについた。


 ただ、翌朝に、本震らしきものが再びこの島を襲った。


 国会議員、大鳥哲人氏行方不明との報は、ただちに国内全体を駆け巡った。

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