回折:大漁旗・3
潮の満ち込みに合わせて、水の路をたどる。
やはり慎重な操船はかれの特徴らしく、夕映えに至る少し前までには、必ず戻ってくる。
「ねえ史さん。いつ決めてしまうのさ」
モーターの音が邪魔をしないように、近くで話しかける。
「なにをだよ」
「るみちゃん、史さんがパパになってくれたらな、と言っていてさ」
風はない。内陸部へ向かうとき、潮の干満で自然に動いていく。この流れは、古くから活用されてきた、水運の鍵だった。
「お察しのとおり、おれはなかなか司法試験に受からなかった。順調にいっていたら、もっと違っていた」
傾きかけの陽が、水面を染めて黄金色。少し律の影を思わせる、史の姿を眺める。
「口説けないだろ。何もできない身の上では。受かったと思ったら、すでにあいつは別の男と一緒になっていた……。幸せを祈るという言葉で、そっと一つの箱を閉じた。蓋をした」
船がたてる波の色は、透き通ってダイヤモンド。太陽光がそれを飾って、時に消えていく指環のかたち。
「ただ、おれは独りのままでいた。何かを期待していたわけではなかったけれど。あいつが戻っていると知ったのは、少し前のことだ。石倉のしがらみを捨てて、すぐにも追いかけようと思って……今というわけだ」
船は遠い風景を目安にして動かすもの。ただ、あまりにも漠たる平野が広がりすぎていて、おれには加瀬が何を見つめているのかわからなかった。
「ぼくのことは、もう、いいんだ。こんなによくしてもらって。これ以上、気をつかわせたくないから。もし、ぼくが……」
「いろいろあったが、住むところも、海苔漁の船も、加工設備も、みんな親父殿の援けで加瀬の家にある。周りの反対のせいでお袋と結婚できなかったから、とにかくできることはみなやるんだ、とね。じいさんたちも心中は複雑だろうが、少なくとも、いまこのようにゆとりがあるのは、そのおかげなのさ」
大広間にあった、代々の当主の肖像画。
そのなかのどれかが、加瀬とよく似た風貌であったと、記憶が告げる。
「おれを籍に入れなかったのは、石倉という家の窮屈さを味わわせたくなかったからだよ。これはお袋が泣いて断ったんだそうだ。金持ちすぎて不幸になるのだけは嫌だと。そんな目には遭わせたくないからといってね。だからあえておれは加瀬のままなのさ」
描き損ねの相似形が、ひとつの船におさまる。似ているような、そうでもないような。
るみは加瀬とおれとを親子だと思っていた……。
「親父殿は最後までおれを見捨てなかった。不出来のおれが、弁護士になるまでしっかり面倒みてくれた。早々とお袋は亡くなっていたけど。そしておれもその息子。一旦引き取っておいて、途中で放り出すような男じゃないんだぜ」
船は向きを変えて逆光。
淡水の域に入って、映り込むリフレクションのまち。
もしも、もしも史が、どのような意味であれ、順調に生きたなら……。おれはかれの子として、この世に現れていたのではないだろうか。
波立つ反転の世界に、もう一つの可能性を見て、夢まぼろし。
遠くどこからか流れくる、蜜柑の花の匂い。まぢかの楠秋。ひそませて隠す、瞳のなかの、ひとしずくの海。
ロープを操る加瀬の姿。このまちへ来て以来、格式ばった三つ揃いでいるのを見たことがない。素朴な身なりでいられる自由を取り戻したのだ。
痩せた体を軽快に動かし、加瀬も陸に上がった。
「男と女のことは、とかく難しい。どいつもこいつも。まして、あんたには早すぎる」
おれはうなずいた。
「だからな、あんたはな、もう少し子どもでいろ。聞き分けの良すぎる、ちいさな大人でなんか、いなくていい」
なにも言わず、加瀬の手を握る。つないだまま歩く。加瀬もしっかり、離さない。
おれたち二人が落とした影が、親子の姿をとる。
夕刻に差し掛かる陽は、水面を黄金色のカンヴァスにしてその一瞬を切り取り、天に示して見せた。そして、上流からやってきた楠の落葉の船で、海神のもとへ運んでいった。




