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回折:大漁旗・2

 波の上を歩く。


 それは不可能そのものだった。


 海はいつだって行き止まりで、これ以上進まなくていいという、ゆるしのようなものだった。


 おれはいまやそのかなたにあって、神(いま)す島もまぢかに、波間から立ち上がる鳥居を、陸とは反対側から眺めることができる。


 海苔漁の時期も終わり、静かになった海。


 ここへ船をつけるのには理由がある。船舶免許取りたての、加瀬の付き添いとして少し離れた岸へ向かうのは常のこと。車より早いとの言い訳。


 この岸につくと、おれと一緒にある家を訪う。小さな食堂を営むひとのもとだ。子どもはひとり、女もひとり。加瀬は必ず昼食をここで摂る。


 おれは初め、わからなかったが、すぐに察した。食事を終えると、おれと同じ年頃の子ども、るみと、外に出て行く。


「るみちゃん、もう潮が引いてしまったよ」


 海岸に二人で行くと、干潟の広がっているのが見えた。


「陸がつながるんだね、海と。どこまでも、沖まで歩いて行けそうだ」


「みんな一度はそんなふうに思うの。でもね、突然あのぬかるみにはまったら、もう自分の力では上がってくることができなくなるの。毎年のように、そうして亡くなる人もいるのよ」


 海の間際で引いていく波を見送る。次の満潮まではここから動けない。なぜそんな時にやって来るのか。その理由は、るみもおれもわかっている。


「加瀬のおじさんが、パパになってくれたらいいのに」


 るみの横顔に、海から跳ね返った遠い輝きが、幸福めいた色を飾る。


「ぼくも、そう思う」


 二人とも笑い合う。加瀬はここへ帰りたかったのだ。人間らしい暮らしのある海辺のまちへ。


 建ち並ぶ家は、その(いらか)に古い潮風の名残をとどめて、半ば白。


「加瀬さんと、そのおじいちゃん、おばあちゃんといるの?」


「そう。おじいさまは早く結婚なさって、史さんのお母さまも、若くして出産なさったそうだから」


 加瀬老人は、現役として海苔を育てている。頑健そのものだ。


「ねえ。加瀬さんは、良くんのパパではないの?」


「親戚だよ。ぼくの両親も……皆亡くなったから、引き取ってくれた。色々言う者はあるかもしれないけれど、間違いなくいまのほうが幸せだ。感謝しているんだ。本当に」


 るみは微笑んでいる。風のない、やわらかな日差しのもとにたたずむ。


「幸い、ぼくはこちらの学校でいじめられたりすることもない。加瀬のおじいさまがたが、きっと普段から周りによくしていらっしゃるので、ぼくにそのおこぼれがきているのさ」


 取り囲む緑は、春過ぎの鮮やかな色。新芽ははや育ち、生命を沸き立たせ、初夏へ向かう途中。これから栄えていくばかりの、上り坂。この穏やかな日々は、おれをやさしくその腕のうちにいたわってくれるのだった。


「わたしね、前のパパとさようならをして、ママのふるさとに戻ったの。ここには、おじいちゃんやおばあちゃんたちがいるから、淋しくないの」


 沖合に太陽は輝きを落として、黄金の波。快晴の日、遮る雲もなく、あらゆる方角へ陽光は降り注ぎ、一切なんの隔てもない。


「史さんもいるよ。これからも、幸せになる一方さ」


 道を行くトラック。子どもたちを乗せて走るファミリーカー。近くのスーパーへ向かう老人。見たこともない県外ナンバー。


 遠いかなたから眺めたときにしかわからない、細密画の様相でこの世を彩る。図案はちょうど、大漁旗のあたりであろうか。


 るみは道端の花びら。おれは波打ち際の砂粒。


 時に混ざり合い、世界にとけかかる心地よさ。


「そうなったら、良くんは、どうなるの」


「どうなったっていい。以前より悪くなりようがない」


 あの洋館も取り壊されているはずだ。大広間の脇にあった、代々の当主の肖像画など、市場においては何の価値もない。


 再び石倉の家を興し直すことができるとしても、あるいはそれを誰かが目論んだとしても、おれは御輿に乗ろうとは思わないだろう。


 公園などもない、海のそば。


 靴の底に湿った土がつく。舗装された道との境界に生えた草が、自然の領域を示している。二人してそこを歩く。


 時は流れていく。かなたの山から湧き出た水は海に注ぐ。せわしなく重機が働き続ける港もあれば、ただに干満を示すだけの波打ち際もある。


 おれには、靴底についた土の理由を説明する義務はない。生きていく言い訳を用意し続けなければならない暮らしは、もう終わったのだ。


 しかし、また、いつそんな日が始まろうとしているのかわからないままに、西への下り坂にさしかかった太陽を眺めた。

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