回折:大漁旗・1
流れる。
後景に退いた緑のなかから始まった、旅の途中。様々な路が合わさり、水面に陽光をたたえてすでに、下流は海の貌。
おれはこれまでに、大きな水の流れをしっかりと見たことがなかった。いつだって、立ちはだかる山か、人工物に囲まれて、動いていくものをみとめる機会ひとつなく過ごしてきた。
旅はただの移動であり、目的地へ向けて、いかに早く効率よくできるかを試されるだけだった。もし、その条件を全て満たしたとしても、認めなければ存在しないものとして扱われる。親の愛を受ける資格があるのか、落第させるための試験……。
だから、加瀬史が、目的地よりずっと手前で高速道路を降りたのは、不思議というよりほかはなかった。
大きな川を見たことがない、と言ったおれの前で、軽やかなハンドルさばき。
橋のようになった堰の上を渡りながら眺める。
県をまたいでも、川を挟んで似たような造りの街。
おれの横で、いつかの律の面影が、サングラスの加瀬史と重なる。進みゆくと、さらにその先に、変わった橋が見えた。
「船が入る時は跳ね上げる。普段は鉄道を通していた。今では、遊歩道になっている」
役目を終え、その活躍の跡を留めて、静かな眠りについた橋は、ただの風景になっていた。
おれはそこに夢の筆で列車を走らせてみる。過去のかなたから、いまのおれ目がけて、迫りくる遠い憧憬。そして寸秒。音もたてずに現在を通過し、未来へ駆けぬけていった。
おれはそれを追いかける。空はいちめん、遠いあしたを描くための、青い余白。
まだ幼いおれに、きのうのことばかり思い出させないように。
冬の残りのような寒さは、南のこの土地にはなく、西に向かわせたのは、いくばくか長い昼をもって、おれに陽光を注ぐため。
見えざる何者かの手によって、運命の転轍が、秘めやかに行われたのだ。
そしてたどり着いた海の間際。川の仕舞のあたり。岸につけた、大小さまざまの船が見える。それらは色とりどりの旗を掲げ、道沿いに並んでいた。ありとあらゆる極彩色を全方向に示すようにして、満艦飾。
加瀬はサングラスを外し、きわめてゆっくりとその道を流す。凪とはいいにくい波の立ちかたのなかで、風を受けてはためくものの鮮やかさ。
その果てには数人の男がたむろしており、表情は誰も険しさを持たなかった。かれらは加瀬とおれに、はにかんだ笑顔を向ける。
降りてみる。
おれはいくつもの船を、そば近くまでいって眺めた。賑々しい。なんらかの祭りが催されるのだろうか。
加瀬は少し離れたところで、かれらと話していたようだった。
そして車に戻り、海を背にすると、集落めいたところに入る。
きっと、日常を舞台にしたドラマなら、登場人物をそこに住まわせるであろう外観。
それなりに近代的で、広いわけでもなく、一つの世帯が存在するのに、ちょうど良さそうな家。
呼び鈴を押す。出迎えたのは、加瀬老夫婦だった。
「よく来た。荷物はあとでいい、まあいいから入れ」
玄関からあまりに近い居室。三人が先に進んで、おれは最後。そして、敷居とおぼしきあたりの段差。その手前で座り込む。
「石倉良でございます。お世話になります」
手をついて、しっかりと頭を下げた。
途端、空気が揺れて、凄まじい力がかかる。
おれは上半身を掴まれ、立ち上がらされたか……と思いきや、気づくと畳の上に転がされていた。
おれを動かした老人は、悠然とかれなりの定位置へ行き、腰を下ろした。
体勢を整え、座り直したおれの真横に加瀬。
「ここはお前の家。ただいまと言って入れ。行ってきますと言って出ろ」
加瀬老人はおれに笑顔を向け、それ以上、詮索ひとつしなかった。
各々の前に湯呑みが置かれる。客用のつくりではない。すでに用意してあったものだ。
おれは、はたと老夫人を見やる。微笑みでもない、ごく自然にくつろいだ人間の顔がそこにある。
ささやかな造りの庭が縁側の先にあり、まだ淡い緑色を身にまとった早春の花と、小さな蝶が戯れていた。
「二階がお前の部屋だ。まずは荷物を運んでこい。史、連れて行け」
にやり、と笑って加瀬は立ち上がった。
玄関脇のバッグ一つ二つ。それだけしか持ち物はない。おれの先を行き、ドアを開けて見せる。
「入りなよ」
その先には子ども部屋そのものがあった。学習机、寝具、身の周り一式が揃えてあった。新品であることはすぐにわかった。おれの年頃ならば、喜びそうなデザインのものばかりだ。同級生たちが持っていたけれど、おれには決して側に置くのを許されなかった、子ども用の道具たち。
「じいさん、あんたと会えるのを楽しみにしていたんだろうな。気づいたか? あの船の大漁旗。地元の者に言ってそうさせたんだ。じいさんなりの歓迎さ。今日はその船の連中が夜になるとここへ集まる。あんたとおれとが、帰ってきた祝いだとさ」
おれは加瀬のほうへ振りむいた。視界は霞み、ぼやける。ついにこらえきれなくなって、大粒の涙が次から次にこぼれ落ちた。それをどうすればいいのかもわからないまま、声もたてずに泣き続けた。
まぢかの海の匂いがした。




