放射冷却の午後・3
「よせ!」
蔵人は手をついて、立ち上がった。
「ぼくの母は、いまここにいる、ただ一人だけだ。他には誰もいない。母を侮辱するのは、このぼくが許さん!」
「蔵人さん」
夫人は心配そうな眼差しで、大鳥の連れ子をみつめる。
「大変ご立派なことです。それだけ慕い、慕われ、なかなかないものです」
「だったらいいだろう。そんなことは。後見人だかなんだか知らないが、突然しゃしゃり出てきて、ぼく自身のことどころか、大鳥家まであげつらうなんて」
「わたしは、あなたの母、頼子のいとこです」
すかさず大鳥がものを言う。
「馬鹿を言っちゃいけない。ある地方の旧家の、最後の一人娘だったんだ。頼子には親の兄弟などなかった。本当にいとこだったら、どうして、わたしたちの結婚式にも来なかった」
おれは蔵人の姿をじっくりと見た。面差しこそ、頼子のただならぬ美貌を受け継いではいないが、品の良さは確かに独特のものがある。その点は、大鳥哲人でさえ足元にも及ばない。
「わたしの叔父は石倉律。ヴァイオリニストです。もしかしたらご存知かもしれません。これが亡くなりました後、早逝していた母親の実家へ養子に行き、姓が変わっています」
建屋の外には、さっきと何ら変わらぬ晴れた午後がある。時折、木の枝が軽く揺れて、すぐに止まる程度の、いつになく穏やかな冬の日である。
「そのくらいなんだ。遠縁での結婚など、腐るほどある。石倉さん、あなたも、はとこと一緒になっているじゃありませんか」
静かに構える大鳥の様子を見て、蔵人も自分を抑え、椅子に腰掛けた。
「石倉と五百旗頭は、そもそも本家と分家ですが、代々、内婚が続きすぎました。そのせいか、なかなか子供が生まれにくくなっています。これ以上血が濃くなるのはおすすめしません。わたしだからこそ言える話ではありますが」
大鳥は黙り、手元の湯のみに口をつけた。夫人も息をついて、あらぬところをながめている。
「蔵人さん、あなたは知らぬうちに母親の面影を見ている。波留とわたしをご覧なさい。驚くほど似ているでしょう。どちらも、頼子さんに。親しみ、きっとそれは、血がもたらした懐かしさです」
蔵人はうつむいていたが、ぎらり、と上目遣いにこちらをにらみつけた。
「ぼくの母はここにいる人だけ。頼子などという人は知らない。なんだ、二人とも妙にべたべたして。つまるところ、この中年男とただれた関係にでもあるんだろう。そうでなきゃ、こうまで反対なんかするものか!」
おれは茶をひと口飲んだ。それなりのものであろうが、味も香りもわからない。激昂する蔵人の目には、少し涙がにじんでいるのが見えた。
「石倉さん、あなたはでしゃばりすぎだ」
風の音がした。急速に陽は翳り、木のざわめきが届けられる。
「あの島の少し前の登記。九割が大鳥頼子となっていました。九割ですよ。ちょっと異常だ。先生のお名前ならともかく。先代までは国会、全国区ではあまり知名度もなかった、大鳥家。今、先生になりましてからは、大臣も歴任なさっていますね」
「なにが言いたい」
「特になにも。政治の世界で出世しようと思ったら、実力と、もうひと押しが要りますからね」
「なるほど。浄財だ。問題ない」
「元の出処と、どこで洗ったかは関係ない……と言い切っても、世の中はどう判断するでしょうね」
「石倉海運。ずいぶん手広くやっているが、さて、これからはどうかな?」
ここで波留が立ち上がった。
「もう、よろしいんじゃありません? わたしは、このお話、お断りします。おにいさま、帰りましょう」
おれは、ごきげんよう、と告げて、出ていく波留の後をついていった。
去り際、真っ赤になって震えている蔵人を、夫人がなだめているのが見えた。
誰も追いかけてくるものはなかった。




