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楽しき我が家・1

 風のない午後。無数に飛び立っていくシャボン玉。ゆがんだ虹の球のなか、手当たり次第そこいらの夢を閉じ込めて。


 そして気がつけば、どこかで消えてしまっている。


 おれは、生け垣の向こうからのシャボン玉を、振り返るようにして眺めていた。車の通りかかる気配もない、閑静な住宅街の一本道。穏やかな春の始まりのような日だった。


「どうです。気持ちの良いところでしょう。子どもさんはいますがね。騒々しいといったふうではありません」


 型の古い、サイズ感の大きすぎるジャケットを着た不動産屋は、おれに笑いかける。きっとこの服は、かれの父親のものだろう。店の奥にじっと構えていた、似たような面差しの男にしっくり来そうなデザインだ。


「正直、わたしもこの町のはずれのあたりに一軒、買いました。良い環境です。子どもも明るくのびのびとしていますし、非行に走る理由は、環境には見当たりませんね」


 両脇に並ぶ家は、どこにも荒んだところはない。小さな鉢には花が咲き、それぞれの個性を押し付けるでもなく、ただに示しているだけだ。


「たしかに明るいところですね」


「ええ。もうすぐですよ。今回売りに出ているのは」


 どこかから男の子の声が聞こえた。はた、と足を止めると、目の前にボールが飛んできた。さほど勢いもなく、ゆっくりと足元に転がった。それは野球に用いられるものだ。


 ブロック塀から、父親らしき男と、息子であろう二人が顔をのぞかせる。


「すみません。当たりませんでしたか」


「いえ。お気になさらず」


 三人は、次の動作を待ち構えている。兄の手のミット。弟の野球帽。狭い庭の隅のバット。転がったままのボールを拾い、不動産屋が笑顔でおれに手渡す。


 太陽はさんさんと降り注ぎ、あたりを幸福色に染める。かなたの山並みに新緑。間近の植え込みのつやめく生命。


 おれはたじろぐ。手の中のものをどうすればいいかわからない。


 放り投げて寄越すのは、通りすがりにしては、礼を失していないか。もし投げ損ねて、どこかを壊したり傷つけたりしないか。


 様々な逡巡が、おれをその家の門扉のほうへ歩かせる。そして、不思議そうな顔で父親らしい男が受け取った。


 うなずく程度の会釈で立ち去ると、ここでもまた、不動産屋がぼんやりたたずんでいるのだった。


「しかしまた、どうしてうちに。家というのは大きな買い物です。知り合いの伝手をたどるなりしたほうが、間違いのない物件が手に入ると思いますが」


「おっしゃる通りでしょう。しかしわたしは、ふらりとやってきた客ですから、騙そうと思えば簡単な話です。しかし、あなたは、ご自身で購入なさったエリアを紹介しようと……」


 不動産屋はおれの顔をまじまじと見つめた。


「しがらみのない土地が欲しければ、一切の伝手を頼るべきではないと思ったのです。そこでどういった人に会えるのか。それも運というか」


「わたしどもは、この土地で長く商売をしています。儲けるのは下手ですが、どなた様であっても、誠実に対応すると決めているんです」


 二代目か三代目かはわからない。どことなく野暮な風貌で、堅物らしい雰囲気。それはひと昔前から、突然に見かけなくなった類の人間がしばしば備えていたものだ。おれは、かれのことを嫌いだとは思わなかった。


「さ、着きました。ここです。前のオーナーはわたしのいとこでしてね。栄転が決まって、越すというので手放しました。珍しい理由ですが、縁起の悪いものではないでしょう」


 いつか誰かの団欒があったあとのダイニングに、おれの影が淡く落ちる。


「ここにしようと思うのですが……」


「じっくりお考えになってはいかがです。しかも、お一人で決めてしまうとなると、後から、その、色々と」


 おれは振り返って不動産屋の顔を見た。ささやかだが、確かなものをつかんだ安らぎを、表情の奥に隠し持っている。独断専行がもたらす不和にまで気を配れるゆとりは、きっとそこから来ているのだ。かれの古い上着は、あとしばらくすれば、何やら馴染んできて、そもそも自分のもののようになっていくことだろう。


 同じ部屋に並びながら、かれとおれの影は重ならない。きっとかれの妻は、こんなメモを渡したりしない。


「ゴルフ場の近く。雨に濡れないカーポート。ゆとりあるガレージ」


 再び外に出ると、昼下がりの空に、二つの球が舞っていた。白いボールとシャボン玉。かれらの軌道を描き、通りすがりのおれとは関わり合いもなく、視界から去っていく。


 いつまでも、いつまでも飛んでいて欲しいシャボン玉も、知らない間に消え失せていく。それでもまだ、垣根の向こうの誰かは、作り出すのをやめようとしない……。


 この幸せの路は、いつしか翳った陽のなかに。そして、冬の早い日暮れのあと、夜の貌をみせる。


 数々のくつろぎのともし火を、それぞれの家の窓にみとめながら、ゆっくりとアクセルを踏む。いくつめの角か数え損ねてしまいそうな造りの住宅街。ナビがなければたどり着くこともできない。


 切り角の違いとシャッターの下りたガレージに注意を払う。


 ここだけ落ちた明かり。呼び鈴に意味はないとわかっている。眠った色彩の庭の下草に木枯らし一陣。見えないはずの冬が、少しだけおれの前に姿を現したような一人きりの夜。


 光源は隣の家からこぼれた幸福色の部屋の明かり。悲喜こもごもは平凡のカーテンに隠されて、うかがい知るのも難しい。


 真っ暗な家の鍵を開ける音が、いやに寒々と、あたりに響いた。

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