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回折:日没のとき・4


 紅葉鮮やかな高原に、律は立っていた。


 遅い午前の光はあたりに降り注ぎ、色づいた葉のさきに、乾き損ねた水の跡。


 旧石倉家別荘は、そもそもの趣を保ったまま建て直されてあった。


「遠路はるばる、お呼びたてしました」


 ドアを開けながら、律は挨拶をする。


「なに、欧州ほど遠くない」


 寒さは室内に一歩入るなり消え失せ、絨毯は秋の日の稔りの色で、視覚に暖かさを与える。


 身体の沈みすぎないソファーに腰掛けて、加瀬史は、初めてここに来たときのことを考えた。


 およそこの別荘は、家の重大事を図る際用いられていた。


 猛と律に引き合わせ、加瀬史という存在を明らかにする。

そんなことができたのは、先代夫人が亡くなって、まもなくの冬であった。


「ダージリンしかないけれど」


 いつもなら太陽の縁取りにとけてしまいそうな律の笑顔。空は風に運ばれる雲に覆われ、あたりを不意に暗くしたりする。


 一斉に、散り残りの葉がさらわれていく。大きくとったサッシの先にはテラス。不意に舞う公孫樹(いちょう)の葉は、律の身にまとう、ゆたかなシルエットのプリーツシャツと同じ色。


「外国のオーケストラの人間が、あちらでの年度初めのこの頃に、長期休暇を取るとは考えにくい。あえていま、という理由はそれですよ。とりあえず、紅茶をどうぞ」


 すすめられて口をつけるカップ。香りがはじけて、胸の付近にあたたかく広がる。


「猛兄さんのことだよ」


 律のカップには、もうすっかり冷めたものしか入っていない。だが、それでいい。かれは熱いものがいけないのだから。


「息子が二人いるよね。長男の良への仕打ちがひどい。さすがに他の世帯のこととはいえ、看過できない。もしも赤の他人なら、役所なり、それ相応の所へ通報しているよ」


 テラスの離れたところに掃除道具があった。本来なら目につかぬよう、仕舞ってあるはずだが、強い風が庭の中まで連れてきたのだ。


 転がる、乾いた音はほんの少しだけ、聞こえそうで聞こえない。ここは防音をきかせてある、と加瀬は気づいた。


「通報したってよかったが、そうすると、猛兄は金と権力でいろいろなところを黙らせようとする。そしてさらに扱いはひどくなるだろう。なぜ良にああまでするのか、さっぱり訳がわからない」


 加瀬は、猛の息子を書類上でしか知らない。


「良は頭がいいのか」


「なかなかに鋭い」


「見た目もいいんだろう?」


 その通り、と律は首を縦に振る。


「それは、猛ちゃんはつらくあたるだろうな。嫉妬だよ」


「実の子に?」


 カップをソーサーの上に置いて、律の瞳をのぞきこむ。


「おれが一番だと思っている。正確にいうと、おれだけが一番でなきゃならない、とな。あまりこういうことは言いたくないが、律、あんただってひどい目に遭わされただろう。何回も約束を破って、あれほど莫大な財産をほとんど独り占めした。条件が違う、と後から難癖をつけて」


 手を組んで、指先をながめる律の、まなざしの翳り。その背に横殴りの風が落ち葉を散らして、塀は五線譜。歌は北からのたより。


「例えば、その坊やが、猛ちゃんの願いを叶えるとするだろう。そうしたら、途端にゴールポストを動かして、何も達成できていないとなじる。およそそうしたところだろうな。自分より立場が下と思えば、どんなに苛烈なことだってする」


 風に流されていく雲の隙間から、切れ切れの太陽。こぼれ落ちた光は乱反射して、ときには快晴の日の空より眩しくなる。見つめてしまったら、しばらくは目に焼き付いて、さまざまなまぼろしの影ばかりちらつく。


 叶えられなかった夢だとか、遠い昔の、掴もうともしなかった幸福の虚像だとかが……。


「情けないことに、康子夫人(さん)も、弟の剛にしても、石倉の次代に対して、あまりの仕打ちではないか」


「おれ、康子夫人嫌いなのよ。顧問弁護士さん、と嫌味たらしく呼ばれると、いらいらする。強いのにはへつらって、弱きをくじくパターンでね。亭主の矛先が自分に向かないなら、どうだっていい。いやむしろ、息子だろうがなんだろうが、盾にしてくる。親子でしょう、とかいって罪悪感でコントロールしてくるとみたね。猛ちゃんとお似合いの夫婦。剛は親によく似てる」


「あろうことか、剛を次に立てると言い出しているらしい」


 声を飲み込み、律の顔をのぞく。


 空の色が、かれの美しい容貌に、陰鬱な(よそお)いをほどこす。


「誰かが唆したのだろうか。これでは良の立場がない。(さと)いならなおのこと」


 加瀬は目を伏せる。この場所で、醜い相続争いが起きたときのことが眼前に蘇る。


「当人はそれでいいと思っているかもしれないが……おれは思い出した。親父殿の亡くなったあと、猛兄が史兄さんにした仕打ちを」


「それは仕方がない。おれは認知もされていなかった。法的に当たり前のことさ。親父殿にはおれが弁護士になるまで面倒見てもらった。何を望むかよ。それに律よ。あんたのおかげで、石倉汽船の顧問に据えてもらったろう」


「人間としてどうかという話だよ。なさぬ仲とかいうけれど、そうするか、しないかは自分の問題さ。なんなら、石倉の役員に据えるべきだった」


 雲の隙間から光がこぼれ落ちる。その一切を集めてしまえば、律の精神の輝きに近いまばゆさを持つだろうか。


「やがておれは良を養子にしようと思っている。次代に据えないと決まったら、間違いなくそうする。いや、あまりに虐待がひどいとなれば、早めに史兄さんの力を借りることになるかもしれない」


「いざとなったらやるぜ。おれも。律の思うとおりにな。何かあれば、おふくろの田舎へでも引っ込んで、海苔漁師などして暮らすさ。海事の勉強などしておけば、二刀流で安心というところか」


「史兄さんに迷惑はかけられないから、時期をみなくてはいけない。とかくもめないようにしなければ、割を食うのは良だ」


「いつだって構いやしない。良という坊やのことは、頭に置いておく」


「折をみて、頼子とも話してみる。森の御曹司との縁談などをすすめたりしてきているからね、猛兄は」


「つりあいはとれていそうだけどな」


「頼子がどうなのか尋ねもしないで、こういうことをして。勿論おれにも一言もない。結構不愉快でね」


 苦笑して、律は肩をすくめた。


「このヴィラは、良に譲る。名義を変えておいてもらえないかな。おれが日本にいる間に済ませてしまいたいんだ。急ぎでできるかな。税金などはいたしかたない。微々たるものさ。ここはホテルとして普段は機能している。金を産み続けるんだ。史兄さん。それも含めて、管理をお願いします」


「なんでそこまでしてやるんだよ」


「いつかそんな日が来る。必ず。夢を持とうとしたとき、あっても、出す金はないと言って邪魔をするだろう。そして良から未来を奪って、完全に屈服させようとするはずだ。自分の意志で生きていくことの出来ない人生など、なんのためにあるのか。財は、人を幸福にするために使うものだ。使われることなど、あってはならない。親のエゴで子どもに自分の人生を歩ませない? おれは、そんなことは許さん!」


 律の背後には、燃える赤、太陽色の黄、とりどりの生命の輝きを飾る、峻厳なる山が聳えていた。


 落ちた枯葉はどこへ向かう。山のヴィラから、麓へ、渓流へ。道へ通りかかった車に張り付いて、時を越え、そしてこの別棟へやってくる……。


「その分の運用で、益は上がっている。だから、どこへ行くにしたって、あんたは肩身の狭い思いなんてすることはないのさ」


「それはいつのことです」


「二年前だね」


 おれは下を向いて黙り込む。


 この場にいない、美しい人の面影を、目の前のスープカップに浮かべる。すっかり冷めたコンソメスープは、この部屋と同じ赤みがかった彩り。


 おれ自身がそこで揺れれば律になり、頼子にもなり、共通する血の流れが現れてくる。


 蔦が木が寒風に揺れて、奏でる音は不穏。疑いを爪弾くのは次の季節。


 太陽の暖かな光を凝縮させて固めたら、この家のテラコッタ色になるはずなのに、触れれば冷たい、潰した暖炉の跡。 


 壁に掲げられた、古い油絵。その中に閉じ込められている、美しいまま時を奪われた人。


「綺麗な人だろう。ずいぶん前に亡くなった、律の奥さんさ」


 美と気品をまとった律は、はかなく命を落とし、この人と同じ世界へ行ったのだろう。


 おれを乗せて走る時、慎重な運転だったと思い出す。崖から落ちるようになるほど、速度を出したりする類ではない。


 ふと考える。頼子が一連の動きに出た理由。


 すでにヴィラは名義の変更のなされた後だった。律の遺産を完全に一人で相続するためには、おれを養子にさせてはならない。


 絵のすぐそばには、写真が額に入れて飾ってある。古城を背に、律と、夫人と、幼少時の頼子らしき子供がくつろいで過ごすスナップ。


 律のまなざしは、やさしさと愛情に満ちて、写真では掴みきれない幸福色が、見るものの心に染みてくる。


 もしも律の愛情が、自分以外に注がれるのを許さなかったとしたら。あるいは、遺産が目減りするのを防ごうとしたならば……。


 律の乗る車に細工し、あるいは何かを()ませ、おれを養子にする前に、遠くへ送ったとしたら……。


 ヴィラを、はからずも奪われたとみて、その遠因を作った猛たちを恨んで陥れたとしたら……。


 そして、たしかにおれは石倉の当主になった。


 跡取りか、養子か。律の願いは叶えられたのだ。


「史さん。ぼくは邪魔者になりませんか」


 加瀬はビールの缶をそっと置き、伸ばした手で、おれの頭をやさしく撫でた。


「そんなことはない」


 今日耳にした山中たちの会話。その内容は決して、加瀬にも誰にも言うまい。


「ぼくは、史さんについていきたい。連れて行ってください」


 ここにいてはいけない。遠縁というのが何者かは知らないが、それよりもまったく関わり合いのないところへ行かなくてはならない。


 そして、二度と頼子に会ってはいけない。


 陽はとうに暮れ、星ひとつない深い闇が広がっているのを、窓からうかがい見た。

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