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回折:日没のとき・3

 長い坂をくだる。空は雲を少しだけ飾る。冬の風は冷たくとも、そういうものだと受け止める。


 誰も通りかからぬ小径。踏みわけた跡は、きっと、つける人も限られている。あの爽やかな、森という青年の仕業だろうと読む。


 しばらくは学校へ行かないという選択をして、屋敷からの眺めを、初めてのようにして愉しむ。


 あの淋しい西陽のあたる部屋から見られるところなど、わずかなものだったのだ。


 遠くからでもはっきりとわかる囲いは、ただのカンヴァスで、夢を描き込む余白しかない。まだおれは筆を掲げてもいない。降り注ぐ冬の陽が、人の目には読み取れぬ曼荼羅を、光でそこにあらわしている。


 道下の、ちょうど別の建物の影になったあたりが、学校だろう。見覚えのある色柄が、低い陽のなかに、少しだけやわらかに認められた。


 おれはいつかの心優しい同級生のことを考える。知らないうちに日直の仕事を済ませておいてくれていた、かれ。


 教員からの嫌がらせじみた罰を面白がって、おれの教科書を盗み続けていた誰か。


 今回のわざわいにしても、おれは悲劇の主人公の立ち位置だから、それを見逃すはずはない。


 もし教員が対応に苦慮するならば、それは優しい惻隠の情。


 しかし、なかにはあるだろう。人の哀れみを誘う、安っぽいドラマ仕立てにして、嘘くさい思いやりとやらを見せつける行為だって……。


 不幸な出来事はあったが、ぼくには未来と皆の励ましがあります、と、おれの口を借りて言わせようとする可能性。あるいは作文など書かせようとするかもしれない。


 ほんとうの優しさも、いやらしい思いやりも、どちらもおれには望ましくない事柄なのだった。


 きっとそれをわかっていて、加瀬史は、学校へ行けとは言わないのだ。


 今までにしたためしのない、不調法をやってみる。荒れ果てた煉瓦塀にもたれかかる。


 あまりに不慣れで全く決まらない。映画のワンシーンのように気取って、もう一度。体を倒しながら少し滑って、独り苦笑する。


 枯れた蔦は黒くなって、そのまま塀から外れない。生きているそれは、引っ張ればすぐに、きれいに離れていく。


 この小径をどんな思いで、森は通っていたのだろう。


 頼子は当分、海外から戻るまい。理由は、山中と橋田がすっかり明らかにしてくれた。どこか納得のいく話で、猛たちがいなくなったのは、決しておれにとっての不幸ではない。


 ただ、なぜ頼子はおれを跡取りに据えると決めたのだろう。石倉汽船がどうなろうと、関係ないはずだ。何の利もなく、ここまでのことをするとは思えない。


 近くに茂る植物の落とす淡い影。かなたから響きくる、人と車の行き交う音は、輪郭をなくして不可思議な歌。


 陽の傾きのなかに立ち尽くして、いっとき、世のしがらみから宙に浮いたら、正確な時刻を用いる理由を忘れてしまうから、おれが日時計。


 暖かければ外にいて、寒くなったら建物の中に入ろう。帰るところ、家は初めからないのだから、失ってもまるで同じこと。


 今までもこれからも、生きる限り仮寓所かぐうしょ。視界の及ぶ、さらに果てまで並ぶいらか。これだけあっても、そのどれもおれの家ではない。


 やがてここにも夕暮れが来る。どんなに高いところにあっても必ず沈むと決められている。


 おれは、この遅い午後の、黄色い光が好きだった。一日が終わる気配をにじませて、なぐさめのようなやわらかさで降り注ぐとき、ようやく安らげるのだった。


 何もかもが終わってしまったあとの光だ。あれは、今日という日が去りゆく、うしろ姿の美しさなのだ。


 空が黄から赤と紫に分かれて、全くの闇色になるまで要する時を計りながらさとる、夏至の遠さ。


 別棟にある、いくつものゲストルーム。おれはそこで好きなように過ごす。家のものは使い放題、はばかりはない。


 出来合いの惣菜と少しだけ手を入れた料理を加瀬とつまむ。それが夕食だった。


 ついでのようにして、おれに台所の物の使い方を教えてくれたが、火事のおそれがあるので、一人のときはしないでくれと言われていた。


 加瀬は缶ビールを開ける。炭酸めいたものが、プルタブから一瞬、煙のかたちで現れ、すぐに消えた。口に運ぶと渋い顔をする。それでうまいと言う。


 この別棟は、ささやかに暮らすのに向いていた。テーブルにしろ、一切のものから無駄が省かれ、洗練されている。つぶした暖炉の跡には現代的な暖房器具を置いて、時代遅れの感はいささかもない。


 間接照明は仕事には不向きだが、あくまでもくつろぎのためと割り切っておくには、素晴らしい。このどこかほの暗いさまが、暖かみをはらんでいる。


ふひとさん。ご自宅へお帰りにならなくていいのですか。ご家族がお待ちなのでは」


 皿に移し替えただけの惣菜が、ひどく上質なものに見える。


「おれは独り身だ」


 おれはどこかばつの悪い思いがして、うつむいた。


「少し都会に疲れた……。この件がなくたって、そのうち母の田舎へ戻るつもりだったさ。石倉汽船以外、ろくろく仕事もなかった、稼げない弁護士だもの。こっちを副業でもいいだろう」


 適度な暗さは、人の目をしっかり見開かせる。明るさに紛れ込ませて隠す物事もある。


 ふと、うつむくときの仕草に、加瀬の知性と哀しみがにじむ。ポケットチーフの柄と同じ陽気さは、スーツと一緒に脱ぎ捨ててある。


 おれは例の件まで、この別棟の中に入ったことはなかった。それが今や当たり前のように暮らしている。決して忘れてはならない時間なのだ、と日々噛み締めて過ごす。


 テラコッタの色彩。ここで律は人間らしく過ごしていたのだ。あの輝きを隠して。本来ならば、絢爛なシャンデリアこそ似合う人であったろうに。


「正直に言えよ。悲しいか」


 加瀬はボイルしたソーセージを噛んで、こちらをうかがう。


「ぼくは、実を言うと少しも悲しくない。むしろ嬉しい。もうあの三人はこの世にいない。お金はないし、先行き不安だけれど、それ以上のよろこびがある」


 ぐい、と缶を傾け、答えになる表情を見せない。


「人前で言わないほうがいいってこともわかっていますから、心配しないでください」


 あらぬところを見つめ、それからすぐに目を伏せると、深く息をついた。おれはそのまま食事を続ける。


「猛ちゃんをはじめ、三人でやたらにあんたをいじめていたのを知らぬ者なんか、いやしないさ。お手伝いさんたちだって雇われているのだから、逆らえない。皆、どうしてやりようもなかったのは、わかってやれるよな」


「そんなこと。間違ってもうらんだりしませんよ」


「だから律は、あんたのことをどうにかできないかと、おれに言いにきたのだ」


 うるんだ加瀬の瞳は、ここではないどこかを見つめている。

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