回折:日没のとき・1
ちょうど陽の差し込むところに置かれた紙の束。
無機質な部屋の、どうだっていい机。申し訳の体裁ばかりで取り繕った、会議室のような場所。なんとも安普請な弁護士事務所である。
昼下がりの太陽は、すでに日没というゴールを目の当たりにして、西への歩みを留めることはない。
「符が悪いというのか、何と言ったらいいものか、わからないな」
黒いサテンのシャツ。スーツの色柄は遊びのきいたもので、およそ事務仕事に向いたものではない。
おれの前にいる加瀬史は、頭の良い者が、時々持ち合わせる独特な軽妙さで話しかける。
探偵だとかが、野暮なのか、ふざけているのかわからぬ風貌をしているのに、しゃべる内容は素晴らしいといった、あの類だ。
こじゃれたヘアスタイル。上着のポケットのチーフ。何を寿ぐことがあるのか知れない。
「面倒なことばかりですね。ぼくは相続しませんよ。放棄できるのでしょう。とんでもないマイナスを、一気に捨てるチャンスではありませんか」
史は笑っておれを指さした。無礼きわまる振舞であっても、まるで気に障らない。かれの笑顔はまばゆい。
「よくわかってるじゃない。まったくもって、本当の失策は、あんたに相続させるプラスの遺産がないことさ」
自動販売機で買ったとすぐにわかる茶をおれの前に置き、飲めとすすめる。
「普通のお子様なら、ただおろおろしたり、泣いたりして、わからないと言うのが関の山だろうさ。怖いね。石倉っていうのは。まあ、そうしたことだから、一所懸命に周りは滅ぼしにかかったわけだけど」
キャップを捻り、史は自分のそれに口をつけた。
「まことに残念ですが、石倉汽船など、猛ちゃんが関わっていたものは、全部人手に渡ります。どうにもなりません。せめてひと言でもおれに相談してくれたら、ここまでにはならなかった。いや、でも、きっと言うことなど聞いてくれなかったかもしれない」
あの後、屋敷で、どうしたものかとぼんやりしていたところ、石倉汽船の顧問弁護士を名乗る人物と、債権者が押し寄せた。その時にやって来た弁護士というのが、加瀬史なのである。
それ以来、おれは別棟で過ごしている。名義はその一角だけ頼子のものになっており、石倉邸全体を押さえるのには、債権者側もなかなか難儀しているようだ。
「頼子は海外旅行中でつかまりにくい。またしばらくすれば連絡が取れるだろう。緊急の場合はおれのところに電話一本ということで、いつも話がついているからな」
史は髪をかき上げた。その一瞬だけ、律が重なったようにも見える。
「あんたはよく律と似てるぜ。親父にもな。おれは先にも言った通り、猛や律と母親違いの兄弟なのさ。要するに、石倉の戸籍に載せられない子どもだからな。偉そうに、おじさんですよ、とは名乗りにくかったな」
棚から缶を出して、机の上に置く。
「煎餅、一緒に食べようや」
袋の中できれいに割って、一口ずつつまむ。
「当然ながら、あんたはおれのことなど知る由もない。猛ちゃんは、おれを石倉汽船の顧問にするのは最後まで反対していた。おやじの遺産ひとつ相続しなかったのに、あまりにむごいと言って、それをどうにかしてくれたのが律なのさ。律は、何かあったら頼む、と、最後の帰国の時、おれにあんたのことを言い残していった。まさか、こうなるとは思っていなかったろうが……」
おれは黙って目を伏せた。煎餅の塩がきつすぎるように思えて、茶で流し込む。
「正直なところ、従姉にしか過ぎん頼子に、あんたがついていると、将来に差し支える。そしてまた頼子も、あんたを気の毒に思ってどうこうしてくれるような女でもない。そこで、あんたには将来を選んでもらおう」
史の風貌のなかには、確かに、石倉の影がある。
「金持ちとして窮屈に暮らすか、平凡の幸福というものを味わってみるか。どうするね」
おれは、大広間の市松模様の床の装飾を、今いる部屋の足元に思い浮かべた。
冷たく、そこに立つ人間の姿を歪めて見せるあの造りを。
古く、ひと足ごとに音を立てる廊下は、何者かの侵入を防ぐためのもので、やすらぎはどこにもない。
不意に破られる睡眠を、一分でも確保しようとあがいた挙句、おれに備わった、異様に研ぎ澄まされた聴覚。
「これは今すぐ決めなくたっていい。大事な事柄は即断即決しろというような言葉があるが、悩む時間、考える余裕は、今のあんたにはある。猛ちゃんは死んだ。急かすものはない。新しい人生を掴むなら、アプローチごと変えてみな」
にやりと笑う史に、律と交わしたであろう約束が見え隠れする。
「どのみち、この石倉汽船の始末が終わるまで、時間はかかるんだ。学校に行きたきゃ行けばいい。同じところが嫌なら、休んだっていい。しばらく行かなくたってどうなるものでもない」
おれは思い切って尋ねる。
「その、選んだ先はどうなっているのか、お聞きすることはできるのですか」
「いいとも」
「金持ちの道を選んだら?」
「遠縁の分家筋に預かってもらう。財力に大変な余裕がある。立場的にも悪くはないがね」
「それではもう一つの、平凡の道とは……」
「おれの、死んだ母の田舎。その実家がずっと西の地方で、海苔漁師をやっている。跡継ぎがいないんだ。冬は海苔の養殖をしながら、暇なときには弁護士の資格を活かしたりして、のんきに暮らそうと思っている。あんたもそこで海苔の手伝いなどしたらいい」
自分を閉じ込めるような山の、そのかなたに、いつか律の教えた太陽のまちがある。
大海原に航跡で夢を描いてみたらいい。
水平線にきらめく夕暮れの光が、おれの前にはだかる日を思い浮かべた。




