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因縁・2

「そもそもぼくは、船が好きだというだけで就いた、旅行会社の社員だった。そんなある日、かみさんが事故で亡くなった」


 どこかを見つめる東の目は、かれにしかわからないものを追っている。


「キャリアウーマンだった。いつも世界中を飛び回っていた。いくらなんでも、まさか、航空機が落ちるなんて……。よりによってぼくが手配したもので。ぼくは、何をしていいかわからなくなった。息子のことも、仕事も手につかなくなった。正直、後を追うかな、なんて思った」


 店内の席についた男と女。それぞれのドラマが知らないところで繰り広げられている。


 ソファーとテーブルは、他人と自分と区切る役割を持ちながら、接点としてもはたらく。


「いよいよだめかと海へ向かった。昔二人で行った、ヨットハーバー。思い出のかけらなんてあるはずもないのに」


 新しく注がれた一杯に、東は口をつける。


「そうしたら、ヨットハーバーは潰れていた。海はあるのに」


 置かれたグラス。すかさず女はその周りの露を拭いてやる。


「ぼくはもうどうでもよかった。このヨットハーバーを、二人で訪れたときと同じにしようと……時間を巻き戻そうと思って、保険金であがなった」


 テーブルの上のフルーツは、東自身の手で、かれの口の中へ放り込まれる。甘さと素晴らしい香りが広がっているはずだ。


「よほど金策に困っていたのか、あれやこれやとつけてくれた。その分がなければ、到底、今のようにはなっていなかっただろうね」


 おれは東の顔を見る。


「なんだか知らないが、誰も欲しがらなかったという。昔はヤマナカ・ハーバーといって、それなりに有名なところだったのに。経営がハシダというところに変わってから、潰れた。ヤマナカ・ハーバー時代の遺産がやたらと大きかったのさ。ことを始めるにあたっては」


 グラスは満たされておれの前にある。


 その手の中にあったなら、取り落としていたかもしれない。


 スコッチウイスキーを微炭酸で割った、かぐわしい一杯が、おれを誘うように、底のほうから泡を立てる。


「ヤマナカ・ハーバー……」


「ああ。きみも知っていたか。ヨットハーバーだけじゃない。マリーナにレストランに、となかなかの会社だった。もちろん船も持っていたしね。なぜ続かなかったのか。理解に苦しむレベルさ」


「いつ頃、ヤマナカ・ハーバーは……」


「はっきりとはわからないが、ずいぶんと前だろう。名前はそのままで、実質、経営がハシダだった、ということだけはわかる」


 かれが手に入れたのは、石倉汽船の所有だったものがいくつもあるだろう。


 記憶のかなたから、猛の姿が現在に近づいてくる。


 足音を忍ばせて、廊下の向こうから歩いてくるときの、底意地の悪さで……。


 あの物々しい立ち居振る舞いが蘇る。決して嫌いではない東に重なる。本当に何一つ、おれに(のこ)すつもりがなかったのだと、今更ながら突きつけられる。


「しかしながら、意外にも、きみのところが新興だったのには驚いた。てっきり、どこぞの御曹司が受け継いだ会社だと思っていたから。よもや創業社長だとは」


「相当に時間をおいて、組織を作り替えたようなものですから。設立年月日は、単なる暦の上でのこと、と思っていただけませんか」


 東はおれを正面からながめる。その表情には、優しげな笑み。


「きみには、飾り気というものがないんだな」


 グラスの中で氷のバランスが崩れる。寒い季節には暖房のせいで、夜の街のアイスペールがすぐに空になるから、山盛りにして席には置かない。


「どうにも、不器用で」


 グラスを傾ける。かどのない味わい。


「息子のことは、きみからしてあまり愉快ではないかもしれない。立場的にこうしたことを言うのはどうかと思うが、何とかよろしく……」


 頭上に瞬くシャンデリアを仰ぐ。そのまばゆさにおれは目を伏せる。


 自分の行く先だけを見つめて、振り向こうともしなかった、猛の、見切れた横顔。


 すぐそばの女の指にきらめく、飾られた透明の石。


 優れた容貌をなおも引き立てる、シックな眼鏡の下、光る欣二の瞳。


 アイスペールの、金属特有の輝きが、溶けた氷のその露で鈍くなる。


「わたしは貨物です。一口に船といっても、仕事の色が違います。確かに、義父(ちち)などは、わたしに対して思うところがあるかもしれません。けれども、やたらに手を広げすぎない、というのも経営判断のひとつです。わかる人がわかればいいことです。どうかお気になさらず」


 光を背にして高いところに構え、猛ならば、こう言うはずだ。


 その利も丸ごと獲ろうとしなくては、どうしてやっていけるだろう、と。


 ヤマナカ・ハーバーに眠っていたのは石倉のものなのだからと。


 おれはそれに応えない。


 鏡の中に写っていた律が、おれの姿をかりて、たちあらわれる。


 虚空を見、ゆっくりと息を吐き、あきらめのような微笑みで告げる。


「息子さんの幸福を祈る親心を知って、どうして、かたきのように思いますか」


 東はおれの手を取った。


 そして、石倉くん、と言ったが、その先は続ける言葉をもたなかった。

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