回折:燦たり新当主・2
西のかなたに、陽は早々と隠れはじめ、赤みがかった黄金の光が散りばめられた道は、おれのためのカーペット。
丘のうえの石垣に、その端に、蔦のまわったものこそ別棟。
おれはあの忌々しい、おどろおどろしい表情の木が、傾いでいることに気づいた。どのような原因かは知らないが、ものの見事に立ち枯れしている。
長い坂を登りきると、そこには屋敷がある。
その日は様子が違っていた。周りにずらりと黒塗りが並び、先ほどおれに話しかけてきた連中と似た風体の者どもが構えていたのだった。
通りかかると、皆が一斉に怒号を浴びせてきた。
おれは大きく傾いた太陽の条の上に立ち、ご苦労、と一喝した。
そして、何もなかったように門を開け、内側へ入っていく。
かれらは、直接的な手出しはできないのだ。警察など呼ばれれば、一巻の終わりと分かりきっている。
しかしここで待つのには理由がある。
近隣の者は、遠まきにこの有り様を見て、何かを噂しはじめているに違いない。
恥をかきたくない猛は、何としてでも追い払おうとするだろう。身に覚えのない借金を払う羽目になったとしても……。
おれは屋敷に入り、いつも通りに過ごした。母も剛も姿は見えない。別棟の明かりはともることなく、時間は過ぎてゆく。
最早どうにもなるまい。
別れの挨拶を、使用人のひとりひとりに告げていった。
最後まで残ってくれた感謝を伝えたかったが、十分に言葉にするのは難しく、ありきたりな言葉に終始した。
これ以上、情がかれらを留まらせるのだけは避けなくてはならない。
使用人たちは、おれ一人を残して、申し訳なさそうに、そして怯えながら、退出していった。
がらんどうになった屋敷の中は、いちどきに荒れ果てた向きをたたえていた。
陽はとっぷりと暮れ、星が瞬くも、誰一人屋敷へ戻らず、電話も鳴らなかった。
使用人が作ってくれていた軽食を口にしたとき、人間の、最後の情けの味を知った。
門外のかれらはいつまでも去らず、夜は不寝番を置いて監視を続けていた。
翌朝おれは、学校に連絡し、しばらく登校ができないと伝えた。
書道教室には、辞めると電話をした。ほっとしているのは、おれではなく、先生のほうだろう。
あの人の思う通りの、恵まれすぎた人生など、今ここに至っては、送れそうにもない。
けれども、あの人のなかでは、石倉良といえば、いつまでもぬるま湯に浸かり続ける、世間知らずのままなのだろう。
石倉汽船の者は、ここへはやって来なかった。もしかすると、皆逃げ出したのかもしれない。そして、そのほうが、かれらの幸福にとって、良いことだと思うのだった。
そうした日が、幾日か続いた。一歩も外出せず、おれの人生において、最も静かだと感じられた時間だったともいえる。
朝日の傾きは、沈みゆくそれの反転でしかなく、何ら変わりのない侘びしさがつきまとっている。人は常々、夕陽にこそその概念を当てはめようとしているが、単に西か東かの違いしかない。
朝の来ることに悲しみを覚えなくてはならない人生を歩み続けている……そういう者はおよそ存在しない、という約束の上に、多くの人が過ごしているだけなのだ。
誰もいない屋敷。別棟の蔦が、冬の空に美しく映える。
もう頼子には会えない。おれには理由もなくそれがわかった。
体に叩き込んだ封の解き方結び方は、終生忘れられないとして……。
突然のことだった。
門前のかれらは何の前触れもなく、皆して引き上げていった。
入れ替わりのように電話が鳴った。なにごとか、と飛びつくと、警察からだった。縁もゆかりもない、三つか四つばかり境を跨いだ先の県名を、相手は告げた。
「石倉猛、康子、剛さん三名の遺体が発見されました」
淡々と応対し、受話器を置くと、虚空を睨みつけた。
山中という男にはめられたと悟った猛は、あの状態で既に逃げる算段をしたのだ。
法律の及ばぬ連中への囮として利用するために、あえておれをここへ留め置き、時間を稼ごうと試みた。
いや、なんなら、すべておれにかぶせようという心づもりもあったかもしれない。
連絡が取れないはずの山中をどうやって追うのか、あのとき、不思議でならなかった。
おれは想像する。
車を捨て、息を切って走る、三人の姿を。
ぐずる剛を黙らせんがために口を抑える、母の手のひら。
体力的に動けなくなった母を見捨てて、なおも走ろうとするが、回り込まれ、追いつかれた猛。
恫喝しようとするも、財とそれに伴う権力をなくした者が吠えたところで、通用するはずもない。
そしてついには、妻子を盾にして命乞いをする情けない男に成り下がる。
泣き叫ぶ母、暴れる剛。三人はどこへも行き場がない。
逃げようとした先を密告したのは、屋敷にやってきた従業員かもしれない。
あるいは、初めから、猛を連中に売り飛ばすために、逃亡先を用意すると嘘をつき、うまく追い込んだのだとしたら……。
世をはかなむ理由は、じゅうぶんにある。遺書よりもはっきりとそれを証明する事実が出揃った。
泣きわめき、無様な命乞いを続けても、どうにもならない。
三人の死は、一家心中として処理されるだろう…………。
あとは、負債というかたちで、法律は、山中とその仲間たちに残りの財を届けてくれる。
おれは、相続を放棄しさえすればいい。
そうするはずだと、そこまで連中は読んでいるはずだ。
しかし、すべてを失ったとしても、石倉という家の血だけは確実に残る。決して、何者にも、奪うことはできない。
おれが、おれこそが石倉そのものになればいいのだ。
ようやくその時がきた、と思った。
律から渡された香水を体にはじめて落とす。
明かり採りの窓から入りこむ、黄昏の赤い光の上を歩く。
そして、大広間の、主人の座る椅子に腰をおろす。
いつか頼子の言ったとおりになった。
「あなたを跡取りにしてあげる」
あれは本当のことだったのだ。
誰一人いない、静まり返った空間で、おれは高らかに宣った。
「わたしが、石倉家の当主、石倉良である」




