回折:燦たり新当主・1
天高く星は瞬き、晩秋の黄金は、闇にも鮮やかな公孫樹の葉。半ば青く、夜に溶けて、時の流れに抗うも、いずれは逆らえぬものであった。
「なにごとか」
屋敷へ走って駆け込む、石倉汽船の従業員にかけたのが、猛のこの一語である。
気鬱な書道教室から戻ったとき、おれはちょうど居合わせたのだ。
「社長、大変なことになりました。すぐに会社へお願いいたします」
「何がどう大変なのだ。今ここで言え」
大の男に対して、権柄づくにものを言う猛に品性のなさを認めて、そっと物陰に身をひそめた。
数を大いに減らした使用人。いまだ残っているわずかな者では、到底、屋敷の手入れは行き届かず、そこかしこに物が置かれていた。
いまおれが立っているのも、そうした場所である。
奥のほうから、母と剛も出てきた。
「そう慌てたところで、どうにもなりませんでしょう。一緒に軽食なりとも摂って、落ち着いてはいかが」
剛は奇声をあげて走り回る。
「そんなことを言っている場合ではありません。社長。橋田という男に心当たりはありませんか」
「誰だ。まったくわからん。妙な輩がやって来たというなら、警察を呼べばいいだろう」
男は嘆息した。
「かれらは、社長の署名捺印のなされた、保証人の書類を見せてきました。印鑑証明もあるというんです」
「……ちょっと電話をしてくる」
席を外し、すぐに猛は戻ってきた。
「あれはどうした。山中だ」
「ヤマナカ・ハーバーの社長ですか? 何も関係ないでしょう」
度々息子を連れてやって来ていた、あの男だ。最近姿を見せないと思っていたが、猛には何か思い当たるところがあるのだろうか。
「わたしは、山中の保証人にはなった。しかし、たかだか一千万もない。微々たるものではないか。それなのにどうして会社にまで来たりするのか」
「一千万? ゼロがいくつも足りませんよ」
「そんなことを認めた覚えはない」
「妙ですね。ほかに、何か、その件にまつわる事柄が起きたりしましたか?」
「先日、山中の支払いが滞りそうだというから、寄越した者に、百万程渡した。一千万程度なら面倒を見ないこともないからな。後からおいおい返してもらえば良いだろう?」
男の顔色が変わる。
「社長! それは追認というんですよ。認めた上に取り消しがきかないことをしてしまったんです。おそらく、悪用されたのでしょうが……」
その途端、猛の手が震えだした。
「さあ、行きますよ。今その債務を履行するといって、本社に何人も怪しげな輩が詰めかけているんです。もう我々では対応できません」
猛の足はがくがくとして、よろめき、その場に膝をつく。
「わ、わたしが行けば、余計に面倒になる。石倉は急病だ。康子、入院先を手配せよ。今すぐにだ」
康子とは母のことである。
「わたくしには、手続きなどわかりません。そこのあなた、宅を病院に連れて行きなさい。そして、問題のことは、よしなに取り計らうのです。そんな大変な時、どうにかするのが、あなたたちの仕事でしょう」
男は大きく目をむいて、母を見据えた。
「そんなことはできません!」
諦めたように嘆息し、猛は力なく告げる。
「わかった。それならば行こう。しかし、まずは、かれを問い質さなければならん。会社へ向かう前に、山中の自宅に車を回せ。康子、剛。二人ともついて来い。そして、良はここの留守を守れ」
……皆して出て行ったきり、戻らなかった。
それから、この屋敷を訪う人はなくなった。
連日出入りしていた集まりの者も、まるで寄り付かない。
おれはいつも通り学校へ出かけていった。
空は高く遠く、澄みきって美しい水色。
所々に散る淡い白の塊が、風に流されていく。
剛が登校している気配もない。
ただ、その日は、いくら待っても迎えの車は来なかった。仕方なく、通う予定の塾に自分で連絡を入れ、休むと伝えた。
一人傾いた陽のなかを歩いていると、突然、道端に停められた車から、男が数人降りてきた。どう見ても、まっとうな様子の紳士とはいえない。
「石倉良くんだね」
「ごきげんよう。どなた様ですか?」
人相のおかしな男は、妙な表情を浮かべ、面食らっていた。
「あのね。おれたちが怖くないの?」
「礼儀です。どなた様ですか?」
数人は、顔を見合わせて笑っていた。
「わたしたちは、借金の取り立てに来ました。あなたのお父さんが、支払うべきお金を支払ってくれないのでね。お父さんはどこですか?」
男の後ろで、数人の、不潔な身なりの者たちが、にやにやとしていた。
「存じません」
「教えてくれないと、まずいことになるよ。例えば、あなたが、学校で、いじめられるかもしれない。あなたのお父さんが、お金を返してくれない人だと、皆が知ったらね。お友達もいなくなってしまうよ」
おれは眉をひそめた。
「あなたがたもお困りでしょうが、そういうことを言ってまわったとして、ぼくには何も影響はありません。それはぼくの問題ではないのです。そもそも友達というものもありません」
「あなたのお父さんがどうなってもいいのですか?」
「どうなったっていいですよ」
男の一人が、声を荒げた。ふざけるな、と言っているようだが、息が漏れたようで、よく聞き取れない。
「ただの坊主ではないな。生っちょろい見た目のくせに、ずいぶんと肝のすわった男だね。あなたも、いつまでも今のような暮らしができると思わないことです。わたしたちがあなたに会ったというのを、お父さんに伝えておきなさい。わかったね」
「機会があればそうしましょう」
かれらはあっさりと引き上げていった。
去っていく車のテールランプのあたりと、巻き上がる砂埃を見つめた。大層古いモデルのもので、かれらが、法律下で厳しい扱いを受けているのがわかるほどであった。このように、人を脅迫することでしか、生きていく手立てがないのだ。




