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船だまり・3

「いままで、お疲れ様」


 眞波は驚きの表情で、返す言葉を失っている。


 テーブルに置かれたコーヒーの香り高く、上質で飾りのない器からは、視覚にも温かな湯気が立っている。


 人払いをした社長室では、二人はただの夫婦だった。


「早く、さなえちゃんが幸せをつかめるように、向こうで頑張っておいで。新しい年度まで少しの間、ヴァカンスのように過ごして、体を休めておくのもいいかもしれないな。こちらはなんとかするから、安心して」


 おれをまじまじと見つめている、その目には困惑の色。


「もちろん、戻りたくなったら、すぐ言ってほしい」


 眞波の左手、薬指に光るものはない。


「きみの決断を尊重する」


 ほどよいぬるさになるのを待ったコーヒーは、おれ好みの味わい。


「どういう風の吹き回し?」


 ほとんどこれは口癖なのだろう。理解不能のときはこの台詞が出る。


「もうじたばたしない。潔くきみを送り出したほうがいいと思った」


「たまに、あきれるほど思い切りのいいときがあるのね。そのポイントがどこなのか、わたしにはわからないけれど」


「見苦しい真似はしたくない」


 目を伏せて、視界もコーヒーの色。


「協力は惜しまない。しかしね、波留の縁談を土産のようにして話をまとめるなんてことは、やめてくれないか。そんなことをしなくとも、きみには、やりおおせるだけの才覚がある」


 眞波は一瞬、またか、という表情を見せた。


「自分の人生を生きようとしない、あるいは、させないのが、わたしには許せない」


 壁にかけられた舵では、何も動かすことができず、瓶に閉じ込められた船は、海に出ていく未来を持たない。


 部屋の隅のモニターは手出し無用。船の現在地だけがわかる、それだけの代物だった。


「そんな人生は送らないし、送らせたくもない。きみが自分の心にふたをするような真似なんてしたら、きっと許せない。自分の人生は、自分が決めなくてはならない」


 手を組んで、それを見つめる。


 麗らかな光が差し込んでくる。


 おれは何かを祈る人のようになって、眞波に相対あいたいしている。


「はじめてなんじゃないの」


 美しい顔立ちが瞬間的に相好を崩す。外からの直接の光にまぶしそうにしながら、その暖かみに安らぐ様子もうかがえる。


「ひとに、本心を見せるのが」


 眞波は、上目遣いで、いたずらっ気のある笑みを浮かべる。


「おれは、いつだって、本心ばかりさ」


 全身を伸ばしてどっかりとソファーに預ける眞波は、陽だまりのなか。口の端は二つとも上を向いている。


 おれも同じようにして、外に視線をやった後、眞波を正面から見すえる。


 二人の目が、お互いの網膜の奥に、自分自身を見つける。あたりは静まり返り、時計がリズムを正しく刻む音まで聞こえてくる。


 相手に吸い込まれるような、魂の真空を認める。


 同じ一秒のあいだに、風が遠くの砂を巻き上げ、一粒の行き先が方向を定めはじめる。


 どこかでビルの基礎が打たれていく。


 足場の上で鳶が荷を下ろした後、空を見上げる。


 姿を現さぬようになって久しい飛行船が駆けた跡を、それと知らずに目で追う。


 そのずっと先に、出来上がった建物の中のオフィス。


 誰かがキーボードを打つ手を止めて、脇に置かれたコーヒーを、淹れてくれた誰かのことを思い浮かべる。


 眞波とおれの間にあるカップが、白い底を明らかにし始める。


 無言のまま、冬にしては穏やかな温度の日を過ごす。おれたちがいちばん夫婦らしくいられるのは、職場なのだった。


「そうだ。今夜、人と会う予定があってね。きみも来る?」


「あなたが誰かと? 嘘でしょう?」


 眞波の笑い声が響く。


「先方さんを驚かせようと思ったが、きみのほうが先だったか」


「それはそうよ。人嫌いの石倉海運の社長が、どうやって誰と知り合うのよ」


「東さんだよ。アズマ・マリンレジャーの」


 はた、と眞波の動きが止まった。


「この間、わたし一人で仕方なく行った会合。そこで意気投合してね。お義父さまが仕事上でお認めになるのも、わかるようなかただね。きみと一緒なら、より楽しくなるかもしれないと思って」


「正直驚いた。今日のあなたは不思議だけれど、それって、東さんの影響でもあるのかしら。お誘いは遠慮しておくわ。気をつかわせてしまうから。男同士の楽しみもあるでしょう」


「そんな、いかがわしいところへは行かないよ」


 やおら立ち上がり、おれの額を指でぱちんと弾いた。


「痛っ」


「そういう意味じゃないの」


 眞波は笑っている。


「わかった。じゃあ後日、きみにデートを申し込もう」


「考えとくわ、行き先」


 一人になった社長室。


 低い位置にある太陽の光をうけながら、小春日和にしては少し遅すぎる、などと考えていた。

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