潮合・2
器からは、湯気が立ちのぼっていた。
ご丁寧に、上座のほうへ、カップとソーサーひと揃い用意してある。
「きみはダージリンで良かったね」
微笑みながら言葉を投げたのは、森行夫であった。
おれはこの老紳士に恭しく挨拶をし、勧められてしずしずと座についた。
「たまにはぼくがいたずらをする側でもよかろう。さあどうぞ」
かれもカップを口元に運ぶ。
失われた若さがその振舞の端々に残って、在りし日が記憶のかなたにちらつく。
別棟の出入り口の赤いレンガと、白を基調にした、さわやかないでたち。
その人は、落ち着いた濃いグレーの背広に身を包んで、いま、おれの眼前にいる。
森行夫は、この業界でもかなりの大物で、現在催されている会のトップだ。
自身の会社はもう代替わりして会長に退いてはいるが、厳然たる院政を敷いて、各界に及ぼす影響は大きいままだ。
森はおれに対するとき、そうした気配を一切見せない。
幾度もカップの中身とおれとに視線を移しながら、言葉を飲み込んでいるようだ。
「きみと眞波さんのときは、さもありなんと、ひとり静かにうなずいたものさ。しかしどうかな。いまは少し、騒がしいね」
テーブルの上のシュガーポットには、くすみもなく、あたりをその曲面に映し出している。
「やはりご存じでしたか……眞波の妹のこと」
「当人たちの気持ちが先にあるのか、仕組まれたものなのかは、ぼくにはわからないが、知り合ったのは、欣二くんのホテルであったパーティーだというね」
そういう場で、偶然を装って出会いをつくるのは、よくある話だ。
問題は、誰の意図なのか。その部分である。
「気詰まりでしょうに」
「格上すぎるところから女性を娶るのは難しいな。だが、ものは考えようだ。結婚はなにも、男の姓ばかりを名乗らなければならん、と決まっているわけではない」
おれはカップを持とうとして、その手を引っ込めた。道の向こうを通り過ぎて行こうとする車の、ヘッドライトがおれの頬をかすめるレーザービーム。
「家など、名字など、どうだっていい。新興の強みだ」
「そこまでして……」
続ける言葉が見当たらない。
「ずいぶんと欣二くんの引き立てにあずかっているようだ。ただ、許せないのは、五百旗頭の会長……波留さんを利用しようとしているところだ」
おれはぎくりとした。口元に手をあて、深く息をつく。そして、ためらいがちにカップを持ち上げる。
外国の磁器で、装飾は華美に過ぎずただに上品。紅い水鏡におれの姿が揺れる。
「わざとだ。会長がX県へ行った。その先で、わざわざX県で、仕組んだ新しい企画を推し進めるところからして」
黙ってひと口、喉へ流し込む。
その間際にひらく甘みが、いまの状況でなければ、どれだけ快かったろう。
「誰の描いた絵なのか、きみにもわかっているだろう。長一郎くんだよ。先代が、一切合切を自身の生きているうちに、いまの会長に譲ったのが、余程腹立たしいのだ」
するどい風の音が窓の外を通り過ぎた。
「たしかに、かれの悔しさもわからないではないが、そもそも実の娘なわけだろう。そのひとり娘が会長の座に据えられた幸運については、思うところはないのだろうか……」
流れる車のライトをながめる、森の、遠いまなざし。
「きっとそうしたことをわかっていて、先代はいろいろ苦心した挙句、きみを後見人としたのだろうけれど。その任を年齢的に自然に離れた途端、こういうことをする。それがどうもぼくには許せん」
おれは森の目を見つめた。
そのずっと後ろを、ウェイトレスが通り過ぎていく。由花子と同じような背格好の若い女が、かっちりとした服を着て出口のほうへ向かう。
「五百旗頭の会長のことにつきましては、あくまで当人の意志のみで。誰に憚ることもないわけですし。ただ、義妹のほうは、わたしには……」
「ふむ。長一郎くんをおさえる役割なら、いつでもぼくが買って出よう。かれの財団をどうにかするやりかただってある」
「ありがとうございます」
おれはその場で深々と頭を下げた。
「では、ぼくは会合に戻る。きみは?」
「少しここでゆっくりしてから帰ります」
「そうだろうと思った。ケーキセットも注文しておいたからね。味はぼくの折り紙つき」
そう言って、森は喫茶コーナーをあとにした。
しばらくしてレジへ行くと、若い女は、お支払いいただいております、と、言い慣れない様子で受け答えした。
一瞬、口説いてみようかとも思ったが、おれに憧れのまなざしを向けていないと気づいたので、やめた。
誰もいないエントランス。開いた扉の向こうのざわめき。漏れ聞こえる腹の探り合い。皆して海に関わり合いながら、きらびやかな陸の光に群がるだけ。
冷たい石の床にはね返る天井の照明。おれをもしあの内側へ入れるものがあるとしたら、それは淋しさからの逃げ。
外には夜が構える。暗闇が海と陸との境目をなくし、ビルは灯台のふりをする。
「やあ」
扉とは違う方向からかれが現れた。
「お目当てのかたと会えましたか」
「さっぱりわからん。誰なのか、皆目、見当もつかない」
おれは困った笑みを向けて、かれに、いたわりの意を伝えようとしてみる。
「まあ、なんとか探しあててみせるさ。では」
足早に、賑わいのなかへ消えていく。
追うこともなく、その背中を見送った。
かれは、なんという名の船を操るのだろう……。




