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エアポート・カフェ

 太陽の角度は、ながらくおれを昼にとどめた。


 全く知らぬわけでもない、過去のかなたに追いやられた記憶を、空から下ろされた光の階に見る。


 どことなく覚えのあるような、遠景の山も素知らぬ顔。似たような田園風景の広がりも、全てが気のせいだ、といわんばかり。


 何もかもが変わり果て、もうここには、いまのおれを置いておける場所もない。


 たどり着いた先は、都市部に近い空港。


 黒塗りにかかりきりの運転手のうしろ姿に、心の動きも見て取ることはできない。スモークガラスとカーテンが二重に遮る車窓の風景を目で追う。


 はたして、かれは、今日の仕事について何を思うのだろう。素性を聞いてはならぬのに、相手の指図にだけは従え、と言い含められたはずだ。


 きっと、おれを送り届けた後、仕事の顔のまま、ここを離れてどこかで適当に息抜きをするだろう。そして、プロらしく、一切合切を飲み込んだまま家路に着くのだ。


 長い沈黙。


 車は著しく減速する。


「支社長によろしくお伝えください」


 振り向いた男は、その時初めて、人間らしさに溢れた笑顔をおれに見せた。


 不意打ちめいた飾り気のなさに、昔のままのこの土地のありようをみとめて、つい同じように応える。はい、と言葉少なに答える声は、もう二度と会わないであろう者同士の、最後のやりとり。


 降り立って、去りゆく車を眺めると、一抹のさみしさが、寒い風の音で走り抜けていった。


 空港の中は、土地の名を冠したことも忘れて、余所者ばかりでごった返している。


 気取りたおしたスーツの男が、今にも破れそうなほどぴったりとしたズボンに着られてしまっている。そのせいか、体をこわばらせながら電話をかけている。漏れ聞こえるわざとらしい東京風の言い回し。


 おれは、かれから少し離れた隅のほうに歩いて、人波から外れたあたりで、ようやく電話を取り出した。


「石倉海運、秘書室、三好みよしでございます」


 ワンコールで秘書室長が出た。


石倉いしくら(りょう)です。何も変わりありませんか」


「特にございません。社長、空港へのお迎えはいかがいたしましょう」


 間近の観葉植物を眺める。温暖な気候が、この冬にも、緑鮮やかに生きることを許しているのだ。温度も快適に設定された屋内のみならず、道道にも散見されたものである。土地の特性が、草木も人もおおらかにさせるのだろう。


 いつもより長く空の高いところにとどまり続ける太陽から、西の方角を探り当てる。


「必要ありません。直帰します」


 おれは、一度も、出張からの帰りの車を手配させたためしはない。事前に何回も要らないと伝えたのだが、これだけはなぜか確かめてくる。近頃は、そういうものなのだと、おれのほうが諦めるようになった。


 通話を終えたあと、物陰からうかがう人の波。


 さっきの気取り屋の男が闊歩している。作られた流行が、かれの手に持たせたビジネスバッグ。どこにいても、かれは仕事をして忙しいといった役どころ。一人きりの物語のなかで踊る。かれなりの筋書きの上では、いつしか黒塗りでの送迎をされる立場になるのだろう。そうなりさえすれば、指先一つ、自分のひと言で何もかもが意のままになる、と思い込まされて……。


 おれはゆっくりと、かれのあとをついていく。モダンで先鋭的なシルエット。追いかける格好になったおれの身なりは、昔ながらの保守的な仕立てで、目新しさはない。


 行き交う人の視線を受けて、かれは、うしろ姿にも意気揚々。


 いくら進んでも、かれはおれの前に居続けた。きっと向かうところが同じなのだ。やってきたのはカフェテラス。


 あたりを見渡し、ひとつの影をみとめる。手を挙げると、相手もすぐに気づいた。テーブルの上の二つのカップ。おれはそこへ直接歩いて行く。


 振り向いた気取り屋の、戸惑いの表情を契機に、ざわめきは限りなく低い音になって、おれの世界から退けられ、必要のない情報は色を失う。ここでは、おれを待っていた五百旗頭いおきべ波留(はる)だけが、彩りも鮮やかに浮かび上がる。


 向かい合って微笑む。


「久しぶりだね。大学はどう。不便なことはない?」


 間近に輝く若いきらめき。地味すぎず、かといって、軽薄そうにも見えない。すずらんの形をした天井の照明は、そのやわらかな美を示し出すのにふさわしかった。


「おにいさまからいただいた車、とても乗りやすくて、サークル活動のときにもたすかるの」


 二人の前のコーヒーは、いい具合に冷めていた。猫舌なものだから、こうしたふうに誰かが先に頼んでおいて、自然に熱を逃がしておくのが望ましい。おれが連絡をしてから、ここへ向かったにせよ、しばらく待っていてくれたに違いないのだ。


「それはよかった。ところで、年末年始はどうする?」


 ふと伏せた、波留の瞳。ゆっくりと口へ運ぶカップ。描かれた花は閉じている。


「サークルの皆と過ごすの」


「歴史研究会だったね。帰らない人もいるんだね」


「大半が地元の人だから」


 波留の通う史学科、ましてサークルには、軽佻浮薄の類の輩はいない、と既に調べはついている。


 組んだ自分の指先を、ぼんやりと見つめる。


「おれは、きみの留守のあいだ、マンションの一室を借りているだけなんだよ。もしや遠慮しているのではないだろうね」


「そんなことないよ。お正月のこのあたりの風習だとかも知りたいから。今回は、どのあたりから玄関のしめ飾りのデザインが違ってくるのか、探そうといっているところなの」


 カップのなかに揺れる、おれの姿。ずっと遠くに過ぎ去ってしまった、時のかなたを覗き込む仕草で、苦い液体に口づけをする。


 その間際、今の虚像が崩れて、子どもの頃の自身が見えた気がした。


「そういえば、おにいさまも、ずっと前、こちらにいらしたんでしょう」


「いま、ちょうどそんなことを思い出そうとしていた。しかし、その、しめ飾りが変わる境界線がどのあたりだったかは、記憶にないな」


「探す楽しみをなくしたくありませんから、ご存知でも、教えないでくださいね」


 おれは微笑みで応える。


「ところで、おにいさま、わたし、政治関係のかたとのお付き合いはお断りしたいのだけれど」


 窓の外で、木が大きくうねるように揺れた。降り注ぐ太陽光が黄の色味を帯びはじめて、時は夕刻へ差し掛かったことを教える。


「何かあったの」


 カップに伸ばそうとした波留の指が、宙を泳いだ。


「マンションに、大鳥おおとり哲人(てつんど)先生の秘書のかたがいらして。いえ、待ってらしたというべきかな。パーティーがあるので、出席してほしいと」


「国会議員だね。大鳥……確かにこの、X県が地元だけど、離島のはずだし、きみのいまの住まいのあたりは選挙区ではないな。きみが二十歳になったからとすぐに声をかけてくるわけだ、突然に。待ち伏せまでして。不躾ぶしつけだな」


 スタッフが、ケーキを置いて行った。波留が注文しておいたものだという。踵を返したその人を呼び止めるのは、さっきの気取った男。狭いテーブルにパソコンを広げて、このざわめきのなか、仕事に追われる役どころ。絵に描いたようなビジネスパーソンだ。


 おれは波留に礼を言い、好みの、ベリーソースのかかったチーズケーキに、フォークを刺し入れる。


「そういったことはわたしには早いと思います、と逃げておいた」


「大学生なのだし、その類は一切なしでいこう。まったく。おれが後見人から外れたとなるとすぐにこれだ。いくらか想定はしていたが、望ましくないな。あまりしつこいようなら、一応保護者ということで先方に断りを入れるから」


 遠くでエスプレッソマシンが殊更に自己主張する。


「そうしたことを避ける面もあって、きみは、はるばる遠くの大学を選んだわけだしね。何かあったら言って。(わずら)わしいかもしれないが、その時はボディーガードなどをつけよう」


「ありがとう、おにいさま。何かあったらすぐに言います」


 波留と変わらぬ年のころの女性スタッフが、近づいてきた。尊大に構えた気取り屋のためのものを手にしている。


「お待たせいたしました。チーズケーキでございます」


 かれは、そうじゃない、注文したのはニューヨークチーズケーキだ、とその定義を強弁し始めた。この長広舌には、周りの者もうんざりした表情を隠しきれない。


 本来なら起こらないはずのことで足止めをくらっているせいか、カウンターでは仕事が滞り始めている。


 おれはこの距離で、ようやく、気取り屋の胸元のバッジが石倉海運のものであると気づいた。


 我慢ならない。立ち上がり、かれのほうへ近づいていく。


「お気に召さないのであれば、わたしがそのチーズケーキをいただきましょう」


 スタッフは驚いて振り返る。気取り屋は訝しむ。


「おや。石倉海運さんなんですね」


 おれの言葉に、にやりと唇を歪めて答える。


「おじさん、この会社の名前くらいは知っているんだね」


 品定めをするような目つきは、おれのつま先から頭のてっぺんまでをなめていった。


「通ぶっちゃあ、いけないよ。どういう会社かも、わかっちゃいないくせに」


 瞬きの手前へ、視線を落とす。はにかんだ笑顔として相手の目に映るよう意識してみれば、かれの思う通りの役どころ。


「有名な会社ですよね、そのくらいしか、わたしには……」


 乾いた笑いを潤すためのコーヒーが、かれの手元から唇へ、喉へ、流れてしまう。


「見たところ、日焼けはしていないものな。どこか僻地の、船会社のおとうさん、といったところかな。従業員に仕事を任せて、小さな事務所にほとんど一日詰めているような、さ。図星だろ?」


 おれはこうした目つきをよく知っている……。肩書を明らかにしない癖をつけさせた、一番の理由だ。


「そういう業界でなきゃ、わからない会社だったりもするさ。実は、とんでもない老舗のDNAを受け継いだ、格の高いところなんだよ、うちの会社はね。金なんて、表に出ているものは、ごく一部に過ぎない。あんたじゃ、想像もつかない桁が動くような世界なの」


「はあ……」


 まばたきを多めにしてみせればご満悦、カップを元通りに置く仕草は、大物ぶっていて……。


「あんたねえ。わかってる? 財閥の、五百旗頭いおきべグループ、って聞いたことあるだろう? その、高級ホテル部門があるんだよ。イオホテルというのだけど。いくらなんでも、コマーシャルぐらいは見たことあるだろう。そこの娘さんが、社長夫人で専務。庶民には、到底理解できない世界の人間で構成されているところなの」


「すごすぎて、なんといったものか……」


 おれの笑みは、かれの目にどう映るのか。近くで困惑したままの店員は、うつむいている。きっとアルバイトでしかないはずなのに。誰も助け舟の一つも出さない理由を探し回ったところで、答えは決まりきっている。


 これだけの人がありながら、関わり合いたくない一心で、くつろぎというものを誰もかれもが示し合わせて演出すれば、見事な芝居の舞台。


「きっと、おたくさまも、お偉くていらっしゃるんでしょうね」


 目を閉じて隠す得意満面。かれ自身、その姿を客観的に見つめるのを嫌がっているとも知らずに。


「海外担当で管理職やってるよ。そのクラスは、同じ年齢だとおれぐらいしかいないけど」


「エリートじゃありませんか。そうしたかたなら、ニューヨークでお召し上がりになってはいかがです。いくらなんでも、こうしたところで、本場ものと比べるのは酷ですよ」


「わかってるじゃない、おじさん。じゃあそうするわ。そのケーキ、キャンセルでいいよ。このおじさんが欲しいそうだからさ」


「じゃあ、どうも」


「おじさん、あんたも一度ぐらいニューヨークへ行ってみなよ。おれは仕事でしょっちゅう行くからわかるんだけどさ。ははは、無理か」


 おれは皿を受け取り、伝票に、その分を書き込ませた。


 うしろ姿に、慌ただしく出ていくかれを見送る。


「いやはや、大変な御講釈を賜った」


「ここは五百旗頭グループがパティシエを招いたところなんですけどね。ニューヨークよりニューヨークらしいと評判になっていたのも、知らなかったんでしょう」


 波留は、あきれ果てたようにひとりごちる。


「こういうのが、さぼり……いや、出張の醍醐味というやつでね……」


「おにいさま、これは、蘇じゃありません?」


 笑いながら、二つ目のケーキに手をつける。


 搭乗時刻まで、まだ時間はある。


 窓の外の昼の名残りを、ゆったりと眺めた。

 

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