潮合・1
四角いガラスの向こうには律がいた。
左右反転がもたらす軽い歪み。背後に通り過ぎていくヘッドライトが、あの日の祭壇の花の彩り。
真冬の寒風に身を切られながら、陽の沈んだあとの街を行く。
誰もいない車寄。ドアの所に立つ係員も、ちょうど外している。おれはエントランスへ入っていった。
ふと思い立って、ヘアサロンでパーマをかけてみた。出来上がったのは、葬儀のとき鎮座ましましていた、あの渋い顔の律だった。不気味なほど似ていて、かれ特有の、謎めいた魅力さえ備わった気もする。
無人の廊下を進みながら、かなたに、あるはずのない律のうしろ姿を探す。
決して追いつけない、いつかの陽炎のように、この果てのない道程に、絶望の彩りを添える自分の影。
どうやっても敵わないという諦めが、猛の心を捻じ曲げた……それと似たところを通っているのだろうか。
おれは目的の会場のあたりまで来た。
どうしても避けられなかった、業界の会合が、この大きな扉の向こうで行われている。
普段通りでは出席する気になれなかったものを、仕方なくヘアサロンで自分のイメージを変えることでごまかして、ようやくやってきた。そのせいで開始時刻に少し遅れてしまった。
「こんばんは」
取っ手に腕を伸ばしかけたときだった。
背後から声がして振り向く。
すらりとした長身の男が、おどけたような笑みを浮かべて立っていた。
「今日の会合に来たのでしょう。今ちょうど挨拶らしい。開けたらまずいタイミングかもしれない」
言葉にとげはない。ただ、やけに親しげだ。
「ご親切に、どうも」
「まあ、こっちに、かけなよ。挨拶だとかが終わったら、そこの扉が開くそうだから、しばらくここで待つといいよ」
おれはこの男の隣に座る羽目になった。用があるふりなどしてやりすごせばよかったろうに。あまりに当たり前に近づいてくるので、離れるタイミングを誤ってしまった。
「ほんとうなら、早く着いて、中にいる人たちに挨拶をしてまわるつもりだったんだろう」
濃紺の、はりのある生地が、かれの顔色を引き立てている。
「よんどころない用。電話でちょっと外に出たら、しばらく戻れない、と止められて、このありさまさ。知っていたら、電話なんて放っておいたのに」
こうした会場にありがちな、どこか叙情的な音楽がかすかに聞こえる。ずっと昔の、テレビドラマのワンシーンになりきってしまったような気さえしてくる。
かれはおれをしげしげと見つめた。
「ずいぶん若いんだなあ。おおかた、親御さんから、顔を売りに行ってこいと言われた類かい」
袖から覗く腕時計はかなりの高級品だ。もちろん実用的で、日頃からかれのほど近くにあり続けるものだろう。靴も、一見して申し分ない品質だ。
「いいさ、ここで出会ったのもなにかの縁だ」
かれは膝の上に肘をつくかたちで、その長身を折り曲げる。組んだ手。その指に光るものは見当たらない。
「今日はね、滅多に姿を現さない人物がやって来るときいたので、急遽、常務の代わりにぼくが出てきた。人嫌いで有名でね。あまりその人の顔を知る者もいないという」
遠目に、床にあらわれた石材の模様を眺めながら、輝きすぎて露出過多になった、海の潮目のようだとか考えていた。
心によぎっては消える、ロールシャッハテスト。記録するものはなく、診断するものもない。
「なにせ、協会長の懐刀とまでいわれている人物だからなあ……。きみ、今日ここへ来たのは、ラッキーだぜ。ぼくと一緒に、その人と会合をもてるよう取り計らうよ。サシではなくて、誰か間に入れば、きっと向こうだって無下にはしないだろう」
広いホール。高い天井から降り注ぐ光は、まぶしすぎる。
外の様子を忘れたら、まるで今が昼のようでもある。
自然の事柄は何もかもおざなりにして、人の都合ばかりを押し通した通貨の輝き。
「最近、操船に夢中でね。きみだってこうした仕事だもの、自分でもやるだろう。どういうの?」
かれは舵を回す仕草をしてみせる。
「わたしは……海苔の船しか……」
一瞬、驚いた表情をおれへ向け、笑顔を浮かべると、何度も小刻みにうなずいた。
「そうか。そういうことか。ぼくは敢えて、きみのこと、訊かないよ。ぼくも名乗るまい。わかるんだよ。親心ってやつだな。東京へ出してやって、東京のヘアサロンへ行ってから、この会合に顔を出せと言われたんだろう。いざ、その懐刀と出くわしたとき、ぼくの正体がわかるぜ。きっと、きみにとってはいいことさ」
勘違いをしているが、おそらくかれは悪人らしい悪人ではなさそうだった。どことなく良い人といわれる類で、ごく身近な者からは、きっと慕われているだろう。
もしここが業界の会合という、身上の明らかになる可能性をはらんだ場所でなければ、どこか地方の居酒屋などであったりすれば、近すぎない友人になれたかもしれなかった。
少しだけほぐれた笑みが、おれの顔にも浮かび、今日ここへやってきたのも、面倒ばかりではないと思えてきた。
それからかれは、自分が手に入れた新艇のことを話し始めた。遊びで乗り回す心づもりだが、いつかそれを仕事にも活かして、何なら自分が船長になったっていい、と実に楽しそうに語った。
人間の良い、昔ながらの男が、都会人のなりをしてここにいた。
「海っていうのは、いいよな。どこへでも行ける。行き止まりを通り越して、知らない遠くへ行ける。そもそも船乗りでも何でもなかったが、どうしても憧れがあってね。遮るもののない、大海原を独り占めしたくて」
おれは、久々に、胸のあたりにわだかまるものがじわりと溶けて消えていくのを感じた。
そして微笑みを浮かべて、かれの顔をのぞき、頷いてみせる。
「わたしも、おなじようなものですよ」
スピーカーから流れる音楽。優しくピアノの音色で一曲を締めるのが聞こえた。よく知っているものだったが、こういう演奏の仕方もあるのだ、としずかな驚きがわきあがる。
「ぼくは、海で儲けようと思ったわけではない。好きで、海へかかわりあいにいったのさ。それだけなんだよ」
似ても似つかない、かれのうちにある海流は、おれの持つそれと近しいものがあった。
あまりにインスタントすぎる友情だが、暖かな流れが混じる地点に居合わせたような心持になった。
「ぜひご一緒させてくださいね。うまくいったら」
「ああ、いいとも。そのときまで、お互いが何者かは内緒にしておこうか」
扉がゆっくりと開いた。内側の様子をうかがう。ざわめきが届く。
「さ、行こうかな」
かれは立ち上がった。
「わたしは、すこし遅れて」
意外そうな表情を見せたが、すぐに目を閉じ、わかったと言って先に入っていった。
おれは外から、会合の受付担当らしき人間を探した。忙しなく動くなかに必ずいるはずだ。
それと思しき者を認め、遠くから会釈して手を挙げる。何かを察して、相手は会場を出てくる。
「さきほど、言付かりまして。協会のかたにお渡しするように、と」
封筒を渡した。その中には会費と、おれのポケットマネーからの協賛金。そして、石倉良の、協会員としての簡単な書類が入っている。
「くれぐれもよろしくお伝えくださいとのことでした」
協会の事務員でさえ、当人とは気づかない。それでは失礼します、と踵を返し、悠然とその場を離れる。
このホールにはティールームがある。
いつもこうした会合に出るふりをした時は、人の賑わいをよそに、ゆったりと茶など飲むのが、おれのいつものことだった。
端の、およそ目立たぬ一角へ向かって進む。
と、突き当たりの席で、誰かが手を挙げているのが見えた。注文をなかなか取りに来ないのだろうか。
おれは様子見がてら、その席を覗き込んだ。
「あっ」




