回折:黄泉国の鎮魂歌・2
今、目の前にいる頼子は、こうした時でも美しかった。悲しみがこの人を打ちひしがせることなどできるのだろうか。
「おつらいでしょう」
おれのひとことに振り向く頼子。
「仕方ない、というのがほんとうのところ」
眉一つ動かさず、感情の動きは読み取れない。
「葬儀にも出られないほど悲しいのではないかと……」
モニターの中、祭壇には、既に火葬を済ませた、骨壷が置かれていた。
「ごらんなさいよ。あなたの父さん。あの場にいて、喪主を引き受けて、どうして意気揚々としているの。涙をこらえているのか、笑いをこらえているのか、わかったものではない」
猛をみとめる頼子の目には、侮蔑の色。
「あなたの父さんとわたしの父、仲が良かったと思う? さっきまでだらだらしゃべっていた挨拶からすれば、とんでもなく兄弟愛に満ちた感じがあるけれどもね。それは芝居よ」
ピアノとギターの合奏。そのとき、一歩退いた、猛。
「わたしがいろいろとする、と言ったとしても、全部あなたの父さんが取り上げてしまうに決まっているの。だから、はじめから投げておけば、悲しみのあまり何もできないということにされたわたしが、楽をできる」
窓から光が入る。雲の隙間からこぼれる、黄の色味。たしかに陽はかげり、勢いは頂点を過ぎて冬への下り坂。
「父さんが死んでいちばん嬉しいのは、あなたの父さんよ。猛さん。まあどうせ、あなたは、あの家でいじめ抜かれているから、口外しないだろうし……ほんとうのところを教えてあげる」
別棟には、むやみに近づいてはいけない、と常々言われていた。きっと、両親にとって不都合な何かがあるからだ。
「わたしの母は、はじめ、猛さんの相手として考えられていたのよ。けれども、父のほうがいいといって……ただでさえいい男だから、嫉妬されていたみたいだけど、これがとどめだったというわけ」
律のさみしげな瞳、うつむきがちな姿が、つよく閉じたまぶたに蘇っても、ただのシルエット。
「あなたは知らないだろうけど、父は祖父によく似ていて。周りからもとても好かれていた。これこそ石倉の面ざしだ、といってね。いちばん石倉らしくないのが、あなたの父さん。かわいそうだけど、あなたがいじめられているのは、その見た目を継いだからなのよ」
おれの前の頼子は、律とその妻の美の、双方を見事に受け継いでいるらしかった。
別棟の入口にかけられた女性の絵は、頼子の母の姿を描いたものだ、と聞いたことがある。
おれの母は何を思い、それを目にしたのだろう。若いまま亡くなったその女性が、いつまでも父の前にあるという事実。頼子を見るたび突きつけられる、残酷さ……。
「これからわたしは、遺産を相続して好きなように生きる。もう誰にも邪魔はさせない。お金は、自由を担保するものよ」
頼子の手は、スコーンを割った。ナイフでクロテッドクリームを取り、たっぷりとのせる。次は、紫色をしたジャムだ。それを実においしそうに口へ運んでいく。
「ねえ、あなたは封の解き方を習った?」
カップを置いて黙り込む。何を指しているのかわからない。
「やはりね。今から教えるから覚えて。ただ、これを、わたしから習ったとか、知っていること自体を、あなたの家族にさとられてはだめ」
紐を渡され、何度も何度も繰り返し、手順をなぞらされた。
「暇さえあれば、一人のときに、しておくの。死んだって忘れちゃいけない。いつか、あなたを助けるものになるかもしれないんだから」
はたと頼子の目を見る。淡々として、感情の起伏は表に出ない。嬉しさや楽しさをどこに置き去りにしてきたのか。それを手に入れるために、これから頼子は石倉家を後にするだろう。そんな気がした。
「これは、石倉の人間なら絶対に知っていなきゃいけない。わざとあなたには伝えていないのね」
ささやくような声がおれを取り囲む。
「剛では無理よ。誰だってわかる。皆がちやほやするのは、馬鹿だから。お利口さんが人の上に立ったら、周りは、勝手なことをやりにくい。自分たちの利益のために石倉を滅ぼそうとして、剛をまつりあげて、跡を継がせようとしている。そんなことにも猛さんは気づかない。石倉を汚そうとしている。この誇り高い石倉を。許せるわけないでしょう」
忘れられない、遠い歌の、つかめない節回しにも似て……指は自然に動いていく。操られる。まるで自分の意思ではないかのように。
「だから、わたしがあなたを跡取りにしてあげる」
晴雨目まぐるしく入れ替わり、奇妙な色味を帯びた太陽光線の破片が、おれの手元に弾けて散らばる。それらを集めては綴じ、そしてまた開き、没入していくと、時間の概念も何もかも消えてしまった。
モニターの向こうに掲げられた律の遺影に、その瞳に、静かで昏い世界からの光が宿ったのも気づかずに……。




