表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/105

回折:黄泉国の鎮魂歌・2

 今、目の前にいる頼子は、こうした時でも美しかった。悲しみがこの人を打ちひしがせることなどできるのだろうか。


「おつらいでしょう」


 おれのひとことに振り向く頼子。


「仕方ない、というのがほんとうのところ」


 眉一つ動かさず、感情の動きは読み取れない。


「葬儀にも出られないほど悲しいのではないかと……」


 モニターの中、祭壇には、既に火葬を済ませた、骨壷が置かれていた。


「ごらんなさいよ。あなたの父さん。あの場にいて、喪主を引き受けて、どうして意気揚々としているの。涙をこらえているのか、笑いをこらえているのか、わかったものではない」


 猛をみとめる頼子の目には、侮蔑の色。


「あなたの父さんとわたしの父、仲が良かったと思う? さっきまでだらだらしゃべっていた挨拶からすれば、とんでもなく兄弟愛に満ちた感じがあるけれどもね。それは芝居よ」


 ピアノとギターの合奏。そのとき、一歩退いた、猛。


「わたしがいろいろとする、と言ったとしても、全部あなたの父さんが取り上げてしまうに決まっているの。だから、はじめから投げておけば、悲しみのあまり何もできないということにされたわたしが、楽をできる」


 窓から光が入る。雲の隙間からこぼれる、黄の色味。たしかに陽はかげり、勢いは頂点を過ぎて冬への下り坂。


「父さんが死んでいちばん嬉しいのは、あなたの父さんよ。猛さん。まあどうせ、あなたは、あの家でいじめ抜かれているから、口外しないだろうし……ほんとうのところを教えてあげる」


 別棟には、むやみに近づいてはいけない、と常々言われていた。きっと、両親にとって不都合な何かがあるからだ。


「わたしの母は、はじめ、猛さんの相手として考えられていたのよ。けれども、父のほうがいいといって……ただでさえいい男だから、嫉妬されていたみたいだけど、これがとどめだったというわけ」


 律のさみしげな瞳、うつむきがちな姿が、つよく閉じたまぶたに蘇っても、ただのシルエット。


「あなたは知らないだろうけど、父は祖父によく似ていて。周りからもとても好かれていた。これこそ石倉の面ざしだ、といってね。いちばん石倉らしくないのが、あなたの父さん。かわいそうだけど、あなたがいじめられているのは、その見た目を継いだからなのよ」


 おれの前の頼子は、律とその妻の美の、双方を見事に受け継いでいるらしかった。


 別棟の入口にかけられた女性の絵は、頼子の母の姿を描いたものだ、と聞いたことがある。


 おれの母は何を思い、それを目にしたのだろう。若いまま亡くなったその女性が、いつまでも父の前にあるという事実。頼子を見るたび突きつけられる、残酷さ……。


「これからわたしは、遺産を相続して好きなように生きる。もう誰にも邪魔はさせない。お金は、自由を担保するものよ」


 頼子の手は、スコーンを割った。ナイフでクロテッドクリームを取り、たっぷりとのせる。次は、紫色をしたジャムだ。それを実においしそうに口へ運んでいく。


「ねえ、あなたは封の解き方を習った?」


 カップを置いて黙り込む。何を指しているのかわからない。


「やはりね。今から教えるから覚えて。ただ、これを、わたしから習ったとか、知っていること自体を、あなたの家族にさとられてはだめ」


 紐を渡され、何度も何度も繰り返し、手順をなぞらされた。


「暇さえあれば、一人のときに、しておくの。死んだって忘れちゃいけない。いつか、あなたを助けるものになるかもしれないんだから」


 はたと頼子の目を見る。淡々として、感情の起伏は表に出ない。嬉しさや楽しさをどこに置き去りにしてきたのか。それを手に入れるために、これから頼子は石倉家を後にするだろう。そんな気がした。


「これは、石倉の人間なら絶対に知っていなきゃいけない。わざとあなたには伝えていないのね」


 ささやくような声がおれを取り囲む。


「剛では無理よ。誰だってわかる。皆がちやほやするのは、馬鹿だから。お利口さんが人の上に立ったら、周りは、勝手なことをやりにくい。自分たちの利益のために石倉を滅ぼそうとして、剛をまつりあげて、跡を継がせようとしている。そんなことにも猛さんは気づかない。石倉を汚そうとしている。この誇り高い石倉を。許せるわけないでしょう」


 忘れられない、遠い歌の、つかめない節回しにも似て……指は自然に動いていく。操られる。まるで自分の意思ではないかのように。


「だから、わたしがあなたを跡取りにしてあげる」


 晴雨目まぐるしく入れ替わり、奇妙な色味を帯びた太陽光線の破片が、おれの手元に弾けて散らばる。それらを集めては綴じ、そしてまた開き、没入していくと、時間の概念も何もかも消えてしまった。


 モニターの向こうに掲げられた律の遺影に、その瞳に、静かでくらい世界からの光が宿ったのも気づかずに……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ