回折:BROTHER(s)・4
緑のあいだを風が吹き抜けていく。あちこちに潜む気配は涼しさを帯びて、陽は乾いた秋の照りよう。
山籠れるただなかに、おれはいた。
律は機嫌良くハンドルを握り、ゆっくりと進んでいる。
サングラスは外国でいつも使っているものだろう。当たり前にかれの顔におさまっている。
「もてすぎて観光どころではないから、おまえさんをかしてくれといったら、にいさん、ふたつ返事だったぜ。今日はくだらん勉強のことは全部忘れていい。やったところで、せいぜい、石倉の決まりきったポストに就くだけだ」
おれはどう答えようもなく、笑い顔のまま。
こまめに手入れをして、パーマをかけているはずの律の髪は、風をうけているかにも見える。
この横顔、ヴァイオリンをあてれば、さぞやきらぎらしいことだろう。
車は小高くなったところで止まった。作りかけの道がすぐ下に広がっている。
コンパスを取り出して、律は方位を確かめている。そして、ある方へ向き直ると、指し示し、向こうが海だと言った。
「秋の夕暮れの頃になると、じつにここは美しい。沈む陽が山の斜面にいくつもいくつもはね返って、真っ赤になるのさ」
満足げに目を閉じる律は、心のうちにある風景と、いまを重ねているに違いなかった。
おれは黙って、山のあなたの海を探す。
いつしかこの稜線が朱に染まり、眼前の緑も、海の一部として、しずかにとどろく大波のすがたで、たちあらわれる幻を視た。
風のただなかに、律のうしろ姿。
たしかにその片側は、誰かのためにあけてあった。だから半歩退がって、おれはおれの海を観る。
一言も発さず、いくらか時間が経った。
そして律は振り向き、微笑む。屋敷では見せたことのない、自然な表情だ。
かれと、かなたの海が、一つのシーンにおさまる。
時のひとこまが、おれの記憶と、人間の届かぬ何処かへ仕舞われていく瞬間。
吹き抜ける風がストリングス。
律の足元がパーカッション。
輝く太陽からの光線が、古代エジプトの壁画のような、無数の腕に化けて指揮者。
ここは木霊の楽堂か。
車へ戻るまでのあいだ、幾度も幾度も、律は振り返り続けた。思い出かなにかが、かれの後ろ髪を引いたのだ。
きっとかれは、離れたくないのだろう。
「さて、本当においしい店へ行こうや。一応予約は入れている」
さっきとは違う方向に、車は走る。
「もう何もかもいやになったら、外国のおれのところへ、留学とかいって出てこいよ。おやじどの、いや、おまえさんの祖父さんが、おれにくれた古城があるからさ」
「どうして、わかるのですか」
信号待ちのときに、おれはつぶやいた。
「おれには、音楽の才能があったわけではない。石倉という家に生まれついて、財力がおれをヴァイオリン弾きにしてくれた……これも実力のうちなのだ」
すこし悲しげな律の瞳が、サングラスの下に隠れているのがわかった。
「おれはたいした音楽家ではない。逃げ道があった。ただそれだけだ」
かれははたして、望んで外国にいるのだろうか。
頼子だって、日本ではないほうが、箔のつきそうなものである。それに、たったひとりの娘というのに、音楽の教育も施していない。
かれひとりだけ、遠く離れている。
「親は親。おまえさんはおまえさんだぜ。つまるところ、親子とはいえ、自分のことが最優先なのさ。それだけは覚えておくんだ」
美しい姿形と気品が、何者にも侵せぬ天爵としてあらわれている。
おれにはわかってしまった。
おそらく律は、それを妬んだ猛から潰されぬよう、まったくビジネスの気配のしない世界へ逃げたのだ。
「おまえさんは苦労するぜ。いい男に生まれついたから」
夕焼けの西の空のような、赤い車は走り抜けていく。律は風になりかけていた。
「このおれのようにな」
窓を開け、散ずることを願ったであろうひとことは、おれに届いてしまっていた。
木の生い茂る山道の、枝葉の蔭に、冷たく暗い場所がある。
通う人もなくなった、古い石造りの路。
涸れてしまって露わになった川の底。
そして、潰れた祠のあと。
ここにいた人々は、どこへいってしまったのだろう。




