回折:BROTHER(s)・1
たしかに太陽は天高くあった。しかしそれはおれの頭上にではない。
屋敷のあちこちにふわりと残る、誰にも見えない香りの航跡についていくと、大広間に久しぶりの姿があった。
乾燥した外国の空気が、その人に年輪を刻んでいても、美しさはそのままだった。黒いサテンのシャツは、着る者のまぶしさを引き立てるためにあって、内側から放たれる気品以上の飾りは必要ない。
石倉律は、ものものしいテーブルを、ちゃぶ台程度にしか扱っていなかった。すっかりくつろいで、ゆったりと構えている。
さっきのものは、かれの香水だ。ここまで来て確信する。
「やあ。しばらくぶりだね」
言葉はすんなり発しているつもりなのだろうが、外国の訛りが残っていた。
律はちょうど、ギターの音をあわせているところだった。
指先から音符ではないものが奏でられて、かれの香りにのり、部屋を満たしていく。
外では、せわしなく鳴いている蝉たちの歌。
曲ではない弦の響きに聴覚が引きずられて、おれはぼんやり、音の海に溺れる。
「さすがに、わるくないギターだ。しかし、ずいぶん放っておいたものだな」
軽く拳で叩いて、リズムをとっている。
「プライベートでは、時々違うものも触ってみたくなるのさ。それにしても、どうしておれがここにいると気づいた?」
「いい香りがしたからです」
律は首をかしげ、そして笑いながら、ミニチュアの香水瓶をおれの目の前に差し出した。
「いい男になるぜ、きっと。まだつけるのは早い。にいさんも怒るだろうしな。時々嗅いで楽しむだけにしておくんだぜ。年頃になったら、海外からいくらでも送ってやるさ」
律の手が、おれの胸ポケットにそっと瓶をしのばせた。
「内緒だぞ。こういうの、にいさんは理解がないからな」
後ろで扉が開いた。
ぎくりとして振り返ると、そこにいたのは頼子だった。ごきげんよう、と、おれのほうから年の離れた従姉に挨拶をした。
頼子は、その親、律の美と気品を受け継ぎ、直視するのも畏れ多く思えるほどであった。
平生、敷地の端にある別棟に住んでいて、やりとりはない。そのすぐ近くの門から出入りするので、律の帰国時以外、顔を合わせるのも稀だった。いつもは大学に通うなりしているので、暇な暮らしというわけではないようだ。
律はといえば、外国の楽団でヴァイオリニストとして生計を立てている。
かれはほとんど日本にいない。きっと早くに妻を亡くしているせいで、ここに住み続けるのは辛いのだろう。そうした話を、古株の使用人から聞いたおぼえがある。
時計はゆっくりと動いていた。きっと、この日ばかりはそれでいいのだ。
大広間にはピアノがあり、覆いが外されている。その横の椅子は、日頃、ないものだ。
少し遅れ気味に入ってきた、おれの両親と弟の剛。早々と座っている律をみとめ、猛の表情が、ほんの一瞬くもった。おれが初めて見るものだった。
腕を広げて、律は、猛をピアノのそばへうながす。
「お手柔らかに」
猛のひとことで、合奏が始まった。
自信たっぷりな日頃の様子とは打って変わって、正確さを追い求める必死な姿が、猛らしからぬものであった。
一方、律は優雅に構え、目立つまい目立つまいとしながら、指先から物語をつむぐ。
なぜ、専門外のギターなのか。
それはきっと、律なりの思いやりに違いなかった。
合奏が終わると、余裕めいた笑みをつくりだし、猛は自分の席へ向かった。
そして、ワイングラスを片手に、律の帰国を喜ぶひとことを述べると、会食という流れになる。
「海外でも、活躍していると聞くが」
「ありがとう。おかげさまで。是非こちらへもお運びください、と言いたいところですが、にいさんは忙しいはずですから、そうもいかないでしょう。たくさんおれの演奏を流すなどして、印税が入るようにしてください」
猛は笑った。
「さすがにいいワインばかり取り揃えていますね。きっと、むこうへ戻っても、ここのコレクションのようには手に入らないでしょう」
「会社で取り扱っているから、いの一番に自分が顧客にならなくてはいけないこともある」
「義姉さん、欧州の、最高級ドレスを扱ってもらいましょうよ。素晴らしいジュエリーの職人も、石倉汽船に営業に行くよう伝えておきます」
律の言葉の前では、おれの母も相好を崩してしまう。
「日本に戻る気は、ないのかね」
「当分はありませんね。向こうには、おれの好みのタイプがたくさんいますから」
「きみらしい。じつにきみらしい」
猛は笑いをこらえ、食事を続ける。
ただ、おれは、律をながめるうち、その目が決して猛や母や、まわりをまっすぐにとらえていないのに気づいた。
冗談を言うとき、わずかに目を伏せて、口元だけで笑いの動きをつくっているのだ。
視線はいつもうつむいていて、テーブルクロスのあたりをさまよう。
おれはふと考える。律が日本にいない理由について。




