FATHER(s)・2
特別室は二つある。もう一つが使用中だとしたら、そこにいる人間は……。
おれはここでサングラスを外す。漏れ聞こえる声を、記憶の中のものと照合する。注文をしている。間違いなく一人だ。スタッフが中から出てきておれに驚く。
白い壁から伸びる手を見て何を思う。端を叩いてノックがわり。
「どうぞ」
入った途端、戸惑いの表情。誰と間違えたかは知れないが、おれは頭を下げる。
「ご無沙汰しております」
五百旗頭欣二は、クラシカルな丸い眼鏡の向こうから目を光らせた。すぐにわかる、上質の極みのようなスーツは、奇抜な柄だが、着る者の美しさを引き立たせる脇役にしかなっていない。
「このたびは、さなえさんのご婚約おめでとうございます」
おれの言葉に眉ひとつ動かさず、黙ったままだ。テーブルの上のグラスには水。それに口をつけて、欣二は長いまばたきをする。
「お願いがあって参りました。石倉海運には眞波が欠かせません。どうか、イオホテルへというのはお考え直しください」
そこで、初めて欣二はおれをまっすぐに見た。
「あまり時間が取れないが、そこへ座れ」
ちょうど九十度になる位置の、椅子に腰掛ける。
「初めてわたしに意見したな」
おれは欣二の顔をのぞきこむ。
上品さと華やかさがこれでもかというほどに表に出ていて、つい見入ってしまう類の風貌である。
グレイの髪は長めだが、清潔なつやをたたえて、いかにも上流階級のたたずまい。
「わたしは、眞波に、どうするかと打診しただけだ」
左手の袖口から覗く時計の、プラチナの輝き。その冷たさが、かれの雰囲気と相まって、余計に美しい。指先も動かず、心中を察するのは難しすぎる。
「本当のところを教えてやろう。今回は、眞波が、さなえの気持ちを知って協力を願い出た。当人は、立場上、板挟みだ。あの子はあの子なりにけじめをつけた」
グラスを傾け、欣二は水を飲み干した。
「ほかに言いたいことは?」
「いえ……」
「そうか」
おれは、視線をテーブルクロスのふちに定めて、動けない。
「息子のわたしが海運をしているのに、ライバル会社の、まったくの他人が近づいて、そちらに目をかけてやるのは、理不尽です。とは言わないのだな」
欣二の顔をしっかりととらえる。その眼には失意の色。
「そのことに怒って、わたしのところへまでやって来たなら、まだ見込みはあった」
欣二は手を組み、唇の前にかざす。
どう返したものかわからない。
決まったことを覆すには、どれだけの労力が要るだろう。もうすでにかれらの計画は動き出している。ここで待ったをかけて、さなえの未来をねじ曲げてしまうのが、果たして正しいのか。
「これだけ言われても何もないのか。そもそも、ホテルと海運、となった時、なぜ新しい物事を思い付かない。実行しない。挑戦しようとしないのだ」
おれは窓の外の暗い夜に海を見た。
岸の繋船柱から、艫綱を外し忘れたまま出航しようとして、傾きがおかしくなった船のことを思い出す。
あの後、綱は外れたのか。機転をきかせた船乗りが、内側から外して海へ投げたのか。あるいは、弾けた綱で誰かが……。
「用はそれだけかね。もうじき人と会うのだが」
おれは席を立ち、失礼します、とその場を去った。
通路の向こうからは、音曲のざわめき。
先ほどとはうってかわって、陽気なビッグバンドが、くつろぎと愉しみの演奏をしている。
サングラスをかける。表情に、さっきまでのやりとりが残らないように。
壁に彫刻めいた装飾。所々置いてある像は、どれも美しい女の姿だ。
どことなく眞波の面影がある。
それらを眺めつつ歩いていると、角の向こうから、男の姿が見えた。
長身の痩せ型で、身のこなしは軽い。
すれ違いざまに、おれの心によぎるものがあった。
その男は、本当にごくわずか、いや、移り香程度なのかもしれない、いつも使うおれの香水と同じものをまとっていたのだ。
おれはそこでふとため息をつく。賑やかさに合流する、一歩手前で立ち止まる。
本当はどこへ行ってもいいはずなのに、来た道をたどるしかない。
戻るきのうも、進むあしたもなく、次のきょうが、延々と続いていくだけ……。
おれの前に広がるいっさいが、暗闇色に染まり、まぶしいきらめきはすべて、時化の海の波頭。
他人の船尾波でぐらつく足元を、自分自身で支えて踏みとどまる。
一番最後のおれの航跡を見るものは、誰もいない。




