引き潮・1
波間に陽光がきらめいた。内海もいいところのここでは、凪の表情を常としていたが、今日はそうでもないらしかった。
西の果て、夏を迎えようとする海は自然そのもののまま、漠として広がっている。
旅館の一室を仮住まいとして、嘘の療養。窓の外から磯の香り。眼下の入江には、漁船がいくつか繋げてあった。
今日も、往来する軽トラックへ乗り込む人の表情が明るいところまで、なにも変わりがなかった。
梅雨の晴れ間、開けた窓から入る空気、潮風の重さと入り混じる冷たい一陣。あの海岸線に、おれ自身の影を描き添えたくなり、部屋をあとにした。
旅館側も心得たもので、それが部屋の清掃や手入れのために適した行動だととらえた。
行く先は言うまでもない。薄手のシャツにスニーカーの軽装で、今日もまた飽きもせず海へ行き、ただに船を眺めて帰る。道端の猫は、おれのことなど気にも留めずに、ゆっくり歩いて日なたへ向かっている。
行ってみると、海岸には誰もいない。
波の上を近づいてくる船があった。綱を投げるも、目標からわずかに外した。おれはそれをすかさず取り、陸の出っ張りにかけてやった。エンジンを切った年かさの男が、手を挙げ、ありがとうと言う。
潮焼けをした顔。潰れた声。古くなったように見えるライフジャケット。今日はうまくいった、と強い訛りで釣果を見せてきた。
おれが長逗留の客だと、この小さな集落の者は皆知っている。だから、その一匹を分けようとはしない。この人間関係の裏では何が繰り広げられているかはわかっている。だからおれは、ここに自分の影だけを置いていく。見知らぬ者への優しさを受け取り損ねて、勝手に傷ついたりしないように。
波と風とが各々の言語で好き勝手している。おれがいてもいなくても、変わらない。
相手は海だ。むかしこの辺りを往来していたことなど、覚えているのを期待しなくて済む。
黙りこくって、初夏の陽におれの輪郭をとかし込むと、波の上を行った、あの日の浜辺の景色が脳裡によみがえる。
干満に合わせて生きる命のリズムが、この世の時計を無意味なものにしていった、あの感覚……。
夏至も間近の空に輝くものは、長くそこに留まり、夜をおしのける。おれはこのまま、立ち尽くして、オベリスクになってしまいたいとさえ思った。すべてから離れている今が、いつまでも続けばいいと。それか、いっそ、そうしてしまうか。できない話ではない。しがらみはもうない。心痛のせいにして、すべてから背を向けてしまうには、これ以上ない好機だ。
沖合を眺める。対岸には対岸の暮らしがあり、文化の境界線はしっかり引かれて、すべてはよそのこと。かなたに霞む山の頂は、厚い雲に隠されている。水平線の縁は白い筋をたたえている、これから天気は下り坂になるだろう。
この海は、この町は、晴れよりきっと、鈍色の小雨がよく似合う。
買い手のない古い漁船など手に入れて、わけもなく海の上を散歩してみようか。そうだ、丘の上にある廃墟、あれを早々と終の栖にするか……。
踵を返すと、親子連れと行きあたった。さして若くもない母親と、小さな子ども。生活のルーティーンがそうなっているのか、外に出ると、顔を合わせる。向こうも会釈し、子どもも挨拶をする。おれはひとりの男になって、異邦人ということもその時だけ忘れて、応える。あのまま、海辺に暮らし続けた未来を選び取った人の顔をして。
先行きは、決して明るいばかりとはいいきれない、淋しげな田舎町。消防小屋に集う人。公民館に出入りする数少ない若者。それでも、かれらはここに留まる。
ドラマの表現とは程遠い波の音。満潮の時は終わり、これから引いていく。後退りする波打ち際。泡立つ海の水。暑さが地面からたちのぼり始めた、緩やかなカーブ。逃げ水のない、乾いた一本道。
旅館に戻る。瞳のはたらきで、外のまばゆさが、室内を暗くみせる。和の構えが作る影が、わかりきった場所だけをおれに歩ませる。
「おにいさま」
振り向くと、そこには波留がいた。驚いた表情を見せたのは、おれのほう。ロビーには他の者の姿はない。
「よくわかったね。ここが」
うなずく波留。いつになく厳しい顔をしているのはなぜなのか。
「お時間、いただけます?」
「いいとも」
そこからおれはスタッフの一人を呼び、今日の昼食はキャンセルすると告げた。
「行き先はきみの望むまま。ただ、身支度の時間をくれないか。少し待っていて」
部屋で着替え、紳士の身なりで戻るロビー。
波留の運転で向かう。ひとまずの行き先は高速道路。X市内へ進むことに決めたのだろう。
助手席で、サングラス越しに古い街並みを眺める。乗ってわかる。波留の運転の腕前はなかなかに巧い。ハンドルさばきに心配は要らない。
「どうやってこの旅館にいると知ったのかね」
「ほうぼうに尋ねました。どなたもお答えになりません。箝口令が敷いてあるとわかりました。ですから、方俊さんに」
おれは目を見開いた。
「表向きは療養。本当の理由は違うけれども、直接本人の口から聞くのがよろしい、とおっしゃってましたわ」
ウインカーをあげて、確認をとるのも、充分すぎるほど。高速までの道のりの遠さ。もしや、ここを波留と行くとは思わなかった。
「そう。でもそれが本題ではなさそうだね。電話一本で済む話を」
「わたし、方俊さんのお屋敷へ行きましたの」
どこの、と尋ねかけて止める。本宅に決まっている。
「奥様も、子どもさんもいらっしゃいましたけれど、お人払いのうえ、応接室で、丁重に向き合ってくださいましたわ」
さすがに方俊も、波留をただの女としては扱わなかったか。安堵のため息を、走行中の風の音に紛らわす。
車は、ナビが示した最短距離をひた走る。順調に流れていく。到着は思ったより早くなるはずだ。目的地を横目で確かめると、X市内の、五百旗頭系列でない高級ホテルだった。
「方俊さんは、お元気だった?」
「ええ、とても。素晴らしい料理人がいるから、とご馳走になりました。むかし、石倉家の雇いのかただったそうですね」
はたと確かめる、波留の横顔。
「そのかたを紹介してくださいましたわ。勿論、おにいさまのお話もいたしました」
亡くなった森行夫が直接に雇い、手放さなかった人物。
「そもそも、森家から紹介されていったかたなのだそうですね」
料理人……石倉の人間の健やかさは、その人の意のまま。だが、あの頃からしてみれば、現在は結構な年配であろう。まして、こうした階級の家に、恒常的に出入りするのだ。秘密は決して、意味もなく漏らすまい。
一抹の不安をよそに、その時のことを、波留は話し始めた。




