さようならの季節・4
通り過ぎた歳月は、まぶたの裏におぼろげな姿で揺らめくだけ。木と潮とが絡みあい、時の流れに崩されていく、朽ちかけの匂いが、おれのこころを吹き抜けていく。
対岸にかすむ古い建物は、港町らしさを彩る赤錆色。およそ、平野の内陸部にはない業種のビルが建ち並び、海のそばに生きるものに寄り添う。
岸壁の脇にある階段は、船乗りが飛び移るための足がかり。絶え間ない往来がそこに隠されている。誰も気にしない、都会の片隅。
おれの視線は、いつもその辺りに向けられている。つかんだはずが、こぼれ落ちていった幸福のうしろ影……。そうしたものが、潜んでいるような気がするから。
「ところで、お体は、なんともないんですか。病院を抜けていらしているんでしたら……」
「世間体のためにしばらく、療養というかたちを取っているのさ。健康そのものだよ。別れる理由作りのための、くだらない芝居だ」
空になった器に、注ぎ足したコーヒー。皿の上のスコーンのかけら。ナイフの端の、クリームとジャムの、混ざりきれないあたり。おれの瞳はそこいらをさまよい、悲しくもの憂げな、さなえのまなざしを、とらえないようにする。
「なにをするにも、訳が要る。くだらない」
笑い飛ばしたつもりが、うまくいかない。暗すぎる夕刻は、もう夜の貌。
布が揺れる。それが翔太郎だとすぐにわかった。断りのひと言のあとで入ってくるとき、かすかに翳った表情に、取り繕いきれない正直さが露わになる。
姻族関係における兄弟という間柄は、成立する前に破綻してしまった。部屋の隅に眠るピアノにかけられたインド更紗の縁のほつれから、解けていく未来への途上……。
かれはおれをディナーへ誘ったが、真に受けて同行するわけもない。
「一応、わたしは、入院中という立場なので。おおっぴらに、人の出入りのある所へは、行けないんだ。……そうだな、いい機会だ。子供の頃過ごした、いなか町を訪れてみるのもいいな」
地味ななりの道化が、おどけてみせる、断り文句。どこがふざけたようで、ふざけきれていない、堅苦しい男。ここでもさみしいひとり舞台。アンコールの声もなく、日暮れ時の水面に、逆さ写しの他人の幸福。
なにもかも遠ざかっていく。おれはそれに追従しているだけなのに、まるで、択び取ったかのようにみせるのは自尊心のせい。これがあっては近寄りがたいし、なくしてしまえば、もう、そこにいるのはおれではない。このちっぽけな取り繕い、やせ我慢が、自身の容貌を輝かせる光源なのだ。
過ぎた日々の懐かしい人々の横顔が、鏡面になった建材のひとつに、シュガーポットに、カトラリーに、散らばる。おれの姿は、黄泉の国から魂を引き戻した人になって、重ね写しの時のひとこまに収められていく。
所詮おれは、命の大海の上で、古い血の航跡を引きずりながら生きるしかない、さみしげな小船。
どうしようもなかった潮流に動かされてしまう自分自身を、嘲笑ってみせる。
ふざけながら、踵を返して、うしろ姿。
乗り込む車は、空間を裂いていく。行きたいところがあるわけでもないのに。ためらいがないふりで、思い切りの良いハイビーム。カーナビが示すのは、行き先だけで、帰り道とはいってくれない。
ハンドルを切る。一人きりの夜のまにまに、このまま、なくしたを愛を探しに出かけるつもりで。




