さようならの季節・3
遠くでは小船が静かに駆けている。港の清掃をするものだ。時間からすれば、もう、今日の仕事は終わりであろう。これから桟橋につけて、真水で洗って、帰るのだ。
「もう、以前のようには、慶彦おにいさんのこと、身近には思えない」
頭上の照明がぼんやりと映りこむ、カップのなかの黒い水鏡。
ここに至っても、さなえは、おれを義兄さんとは呼ばなかった。
しかし、三好慶彦は、立場はどうあれ、にいさん、なのである。そのように言い表すのは、年月ばかりのせいなのだろうか?
さなえの首元のスカーフに、くるまれているあたたかみ。折りたたまれた内側の柄が、いかなるものであるかは、想像がつく。
おれは、それを広げたときの様子を、現に見たわけではないけれど。
「ああ、お伝えしなくてはいけないことが。長一郎伯父さまが、お屋敷の祠を壊そうとなさっていたけれど、父が止めたの。さすがに、そういうのはいけないと」
視線をしっかり、さなえに合わせる。
「ありがとう」
いえ、とつぶやくように返した、消え入るようなさなえの声。
「余計な衝突は避けたい。折をみて、どこかに遷さなくてはならないね。そのつもりでいるのを伝える術は、もうなさそうだな」
小さなスコーンを割ってクリームを塗り、わずかにのせるブルーベリージャム。これに合わせるのは紅茶のほうが良かったか、と思い直す数秒間。
「それには、波留の意向も確かめてからでないといけない。とりあえずは、なにごともなく、良かった」
夕映えのひかりがちぎれて、雲を多くしたまま、夜に向かう気配をみせはじめた。
暗くなりゆく空をぼんやりながめる、さなえの表情から、なにを読み取るべきであろう。
「どうして、そんなに、あの子のこと気になるの」
スコーンで乾いた喉を潤して、目を逸らしたままの、さなえの問いに答える。
「自分によく似た風貌の子が、自分とよく似た具合に生きていたら、気にならないかね」
干潮があきらかにした、岸壁の土台近く。あの暗い穴のなかに、隠れてついた貝殻たち。大潮は、普段表に出てこないものを、なかば無理矢理、露わにする。
「なにもなかったら、きみのお祖父さまが、法的な手段で、いろいろな事柄をゆがめるまでのことをして、強引に波留の件を進めるはずはないだろう」
係留されてある船は、低い場所にある。
今日これから乗る人もいないだろうに、浮桟橋は、乗り口にぴたりと従いている。
「わたしは、実の親から、およそ家族とはいえないような、いやな扱いをされてきた。かれらがこの世の人でなくなったと聞かされたとき、心底ほっとしたものさ。かれらは、わたしの見た目を嫌っていた……」
西の空に異様な陽の輝き。まもなく昼は去る、その間際。
「容貌に恵まれているということと、幸せだということは、別の話だ。人は、妬むからね。親が子を妬む、そんなことになったのが、わたしさ。波留さ」
暗くなりかけの方角に、星が瞬くにはまだ早い。陽の高いときと変わらぬ明るさを求める人は、部屋に灯した偽の太陽で、カーテンに、時を忘れた影絵を描かせにかかる。
「きみのねえさん、幸せかい」
さなえは目を逸らした。
「いい家に生まれて、頭もいい。見た目は、桁違いにすぐれている。人の心のなかなんて、覗けやしないが、幸せの条件が揃ったから、その通り、というわけにはいかない」
ぬるくなったコーヒーは、どこか、奥底に、砂糖ではない甘みを含んでいる。
「きみだってそうさ。ほかの、ごく一般的な人に、胸のうちのかなしみを話して聞かせたところで、わかってはもらえない。恵まれすぎた者のたわごとだと、かえって反発を招くのが落ちさ」
遠くの空に、赤い帯があらわれた。
まったくの黄昏である。
「波留のかなしみが、わかるかい」
街の、どこかの明かりが、かすかに、さなえの瞳のうちに届けられた。
ひどく弱々しく、頼りないものだったが、たしかに外から入ってきた。
「財産も、社会的地位も、見た目もみんな裏目に出て、親からはなかったものとみなされ、世の中から隠されて。なにが幸福なものか」
水面に淡くあたりの光が映りこんで、港は夜の貌に変わりはじめる。
「生まれついてそうだから、耐えられるのであって。大人になって、突然に、そうした環境に放りこまれてごらん。たまったものではない。だから、わたしは、三好くんのことは、恨むどころか、気の毒でならないのさ」
見知らぬ幸福が、ガラスの向こうに瞬く。おれを無視して。
「かれは努力してしまうだろう。よりよいものになろうとするだろう。わたしのようになってはいけない、という期待を汲みとって。自由をなくした、と気付いたそのとき、かれは、いったいどうするんだろうな……」




