さようならの季節・2
鈍色に沈んだ街に、打ち寄せる波。ここまでは、まだ、あの雨雲は追いついていなかった。まばらに落ちてくる夕刻の陽が乱反射でいやに眩しい。あらゆる影に潜んだ物語が、そこかしこで動きだす。
やってきた車が、敷地内に停めたのがわかる。
海を臨むテーブルは、フロアの奥まったところにあり、入ってからすぐには、存在を知り得ない配置だ。おれがアズマ・マリンレジャー所有の、例のマリーナ併設レストランに構えているのには、理由があった。
壁一枚の向こうから、伝わる気配。パーテーションのさきから現れたのは二人。東翔太郎と、さなえであった。
間近の海がつくる銀の光が、二人を照らしていたが、かれらの、未来への可能性の輝きにのまれてしまった。
「ご無沙汰しております」
翔太郎の顔色は、以前より良くなっている。かれの挨拶に、微笑みで応える。
「わたしは、事務所でしなくてはいけないことがありますので、後ほど……」
無愛想なわけではない。やさしい男は、音もなくそこを出ていった。
さなえは、口ごもったまま、おれの向かいに座る。
この間と同じとおりに、コーヒーポットと軽食の類を置きに来た男は、どうぞ、のひと言で立ち去る。
パーテーションの向こうの布が揺れて人払い。
夕映えの光が、少し離れたところに係留された船の、金属部分に反射している。
おれはそれを目を細めて見ていた。
「きみたちの結婚式を目にすることができないのが、残念だ」
近くを、それなりの船が通ったのだろう。引き波がきて、停泊中のものを、いくつも揺らした。
「ごめんなさい」
さなえの、絞りだすような声に、向き直る。
「そんなことを、きみが言ってはいけない。かかわりのない話だ。今日、翔太郎くんの計らいで、ここで会うのも、きちんと別れの挨拶をしたかったからなんだ。責めるつもりなんか、ひとつもない」
ひと呼吸おいて、コーヒーに口をつける。おれが飲むのにちょうどいい温度まで、冷ましてある。
「本来なら、五百旗頭家で、皆さんにご挨拶すべきだったろうけれど。お父さまがたは、会ってはくださらなかった」
「お詫びすべきなのは、こちらのほうなのに」
恐縮しつづけるさなえを見るのは、いたたまれない。
「もともと、結婚すべき人があったのに。何を思ったか、ふたりぶんの道をおかしくさせてしまって、わたしだったら……」
「いいんだ。わたしが至らなかった。もう少し早く決断すべきだった。わたしは誰のことも恨んでいない。むしろ、三好くんと幸せになってくれれば、それでいい」
顔を上げて、驚きの表情をしていたさなえは、すぐに、ぐっと目をかたくつむった。それから、うつむいて、ため息。首を軽く振る仕草に、芝居の気配はない。
「もしも。もしもだよ。結婚前に二人の間柄を知っていたら、却って、お父さまがたに、早く二人を一緒にさせてあげてくださいと、お願いに行くぐらいのことはしていたさ」
カップを持ち上げ、口づけをし、落ち着こうとしているさなえを、ひどく人間らしいと思った。
あの、計算づくで生きる人々の間で、隠されながらも失われなかった素直さは、翔太郎のおかげで、表に出ている。
「黙っているのは、つらかっただろう」
まっすぐのぞきこんだ瞳は、潤んでいる。
「わたしはてっきり、慶彦おにいさんと、と思っていたから、石倉さんのこと、変に誤解していたの。お金や、家柄の力で、二人を引き裂いたんだって」
さなえはかぶりを振る。
「でも、違ったのね。こんなことなら、もっと早くから、しっかり、お義兄さんとして、向き合っておけばよかった。以前は失礼なことばかりしてごめんなさい」
「なにを、きみが、そんなこと……わかってくれれば、なによりだよ」
停まる船は揺れる。沖のどこかで行き交うものがあれば、必ず影響を受けてしまう。港内をどれだけゆっくりと進んでも、同じことなのだ。
「ふふふ。でも、皮肉なものだね。肝心の相手にとっては、邪魔者でしかなかった」
水面に、ところどころ落ちて、揺らめく太陽光の破片たち。まだらな輝きは黄金色。拾い集めることもできない。こうして離れたところでしかわからない、天からの贈り物のような、まぼろしの光。あたりに建ち並ぶビル群は、それを享けずに、淡い灰色にくすんでいる。
切り取られたまばゆさは、見知らぬ誰かの遠い幸福。
渇望と黙殺……そのあいだをグラデーションのように分布しているであろう、密かな羨望。
それを見事にかわしきって、天祐らしきものを隠し置こうとするのか。
おれには決して届かぬであろうその場所に!




