【045】『私の気持ち』
「だから、俺がしばらく可愛がってやる。婚約破棄は法が変わるまで延期しよう。それが一番良いだろう。お前は大好きな俺といられる。俺は王子でいられる。ココは賢くて聞き分けの良い女だからな、暫くは恋人のまま待たせても大丈夫だ」
私はあまりの暴言に首を振った。声が直ぐには出なかったから、首を何度も何度も振った。何を言っているのだこの男は。卒業記念パーティーで私を完膚なきまでに振って置いて、その舌の根も乾かぬ内に、婚約破棄を撤回するとは。しかも法が変わるまでの暫定期間だけ。
「……いやです」
私は震える声を喉から絞り出す。いや。この人の声を聞きたくない。側にいたくない。顔も見たくない。
「おいっ、今なんて言ったんだ。しっかり言え! 俺の事が好きなんだろ、婚約破棄を撤回しますだろ!」
「………」
喉が押し潰されて声にならない。早く言い返さないと。お父様みたいにスマートに。セイヤーズ家の威を借りた嫌みを。
「もういい。それを貸せ」
私は先程から大切に婚約破棄証書を両手で握りしめていた。とても大切なものだから、ずっと持っていたのだ。私が侍女になる為に必要な書類。エース家に終身雇用してもらうんだ。それが今の私の夢だから。これが無ければ一歩を踏み出せない。
「早く貸せ! 破り捨ててやる」
いや。止めて!
棒立ちになっている私に向かって乱暴に手が伸ばされる。
と同時に元第二王子殿下の伸ばされた右腕が燃えた。
え? 燃えた。
蒼い炎。だがしかし、次の瞬間には彼の右腕は凍り付いていた。
蒼い炎は紅い炎より温度が高いと言われている。
炎の魔術が紡がれたのだ。
私は元第二王子殿下の存在も忘れ、辺りを見回す。
そして自分の背中に温かい手が回されたのが分かった。
神官様? この場に神官は四名。上級神官が二人と、アシストしてくれている下級神官が二人。下級神官の一人は黒縁の眼鏡を掛けていて、その奥の瞳が鮮やかな紫色をしている。魔道具の眼鏡ーー
ルーシュ様!?
いつもと瞳の色が違うけれど、あの眼鏡の奥の瞳はルーシュ様のもの。先日シリル様が着けていた魔道具だ。髪には私が作った銀色のリング型のヘアビーズが着いている。髪も紫色に変化している。あの魔道具はシリル様の黄色の髪の色を亜麻色に変化させる為に色を添加したもので、黄色は亜麻色に、紅は紫に変える。
その紫色の瞳がまるで大丈夫だよと言うように、こちらを見ている。
今朝、彼は早くに出かけていなかった。王城に来ていたのだ。
私がルーシュ様の神官姿に呆然としていると、一拍置いて、父が彼に向かって少し微笑んだように思う。
「……氷はね、水と違う所は固形だという所だよね。物質は一緒なんだけど、使い方が違って来る。水は拘束には向いてないけど、氷は相手の動きを止めるのに向いている。一発だ。足を凍らせれば、足が止まるし、体を凍らせれば動きが止まる。顔を凍り付かせれば息が止まる。特別な訓練をしていない限り、四分でブラックアウトして十分で死亡。使う時は長さが重要になって来るんだよね」
父の氷魔法の講説が何故か淡々と紡がれる。
「そして人の温かい血が凍る温度はマイナス十八度と言われている。意外に温度にも繊細な気を遣うんだよね。人の体温は三十七度平均。まあ、これが氷によって急速に冷やされて、マイナス十八度になると、血と細胞が凍り始める。急いだ方が良いんじゃない?」
父の視線は即すように王太子殿下に注がれた。
王太子殿下は我に返ったように、元第二王子であるバーランドを連れて行くよう衛兵に指示する。
「弟は湯浴みの時間だ。連れて行け、上がったら第一聖女を待機させて置くように」
王太子殿下がテキパキと指示を出し、元第二王子はなんの抵抗もなく連れて行かれた。ショックで言葉も出ないらしい。それは自分の手が一瞬で燃えて凍れば衝撃で口を開けなくなるかと思う。
燃えたのは一瞬だから、多分火傷という事はないと思う。もしもあったとしても皮膚が少し赤くなりヒリヒリするくらいだ。
氷もあの短時間なので氷点下に入る事はない。あの氷はとても薄かった。元第二王子殿下はショックを受けて固まっていたが、自分で割れるくらいの氷の厚さだったように思う。
お父様がかなり微調整した氷だ。怪我が残るという事はない。軽度の霜焼けになる可能性はあるが、血が凍るレベルではない。父の目的は相手の動きを止める事では無く、火を消す事だったのだと思う。水ではなく氷を使ったのは、多分私が使ったと思われない為に、わざと水魔法は避けたのだ。あとは元第二王子にショックを与える為か?
私は飄々としている父を見遣った。
この人天才だ。魔導師として私は足下にも及ばない。
あの一瞬で、火を消す為に薄い氷魔法を展開した。
氷は水より数百倍繊細な魔術だ。魔術を発現させ、命令を下す時に水は水だが氷は指示量が違う。指示量は魔術の展開に影響するものなのだが、秒速だった。つまり通常の顕現よりも処理能力が段違い。
私は隣に座る父に視線を注ぐ。この人……なんで貧乏伯爵なんだろう……。








