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431【29】『これは誰の所為?』


私は袖で顔を覆う。


「シリル様」

「なに?」

「シリル様が色っぽいお話をするから鼻血が出ました」

「そう? じゃあこれを」


 シリル様がそう言って渡してくれた白いハンカチは濡れていた。


「ありがとうごさいます。これで血を拭きますねっ。て、濡れてますから? びちょびちょですから。拭けませんからね? 意味ないですよ?」

「ノリツッコミ」

「え?」

「いや。待っていたものが来た時の痛快さはちょっと言葉では言い表せないよね?」

「それは確かにこう待っていたのに来ないと、ちょっと準備万端だっただけに、待機時間が長くなりますよね?」

「まあ、ロレッタの為ならば、どんなに長くとも待てるけどね」

「そうなのですか?」

「なんせ僕は五百年以上待っている。千年でも待てる」

「気が長いんですね?」

「君を相手には大分長い」

「そうですか?」

「そうとも」


 シリル様とそんな遣り取りをしながら、私は借りたハンカチを絞って使った。

 絞れば使えないこともないよね?



 ハンカチで押さえながらも、これ以上水の中に血が広がるのもどうかと思い、少しずつ水の排水に入ろうかな? と思う。具体的には小さな穴を空けてちょろちょろと小川に戻すだけなのだが。


 丁度斜面でもあるし、こうかなり原始的な方法というか、穴を空けて戻すという名の流すだけですけども。少しお湯になってしまっているので、少量ずつ水温が上がらないくらいで。


 これをまた冷やすというのも、氷の魔術師ではないので、氷点下に入れることは勿論できない。

 どうやったら外気より低く出来るのだろう?

 水と水の分子を震動させると上がるのだが、冷やすとは? 何の力をコントロールしている?


 氷の魔術師は存在がマイナーというか、希少種なので、教本とかそういうのがないんだよね?

 あっても誰も読まないから需要もない。

 たった一人のために教本は作られない。

 だから、先代が次代にというようなレベルでの取り扱いになる。


 あ、でも今まで全然意識していなかったけれど、それはとどのつまり父の書斎にあるということだろうか?

 読んでみよう。

 手が空いている時に。


「シリル様、ルーシュ様、そろそろ排水しましょうか?」


 次は見晴らしの良い木の上に案内したかったのだが、木から落ちた以上そんな気分ではない。もう木は登ってはいけない気さえする。半年くらい?


「お弁当を持ってピクニックも出来ましたし、桑の実のバスケットを落としてしまったのが、些か残念ではありますが、それは虫さん達に譲るとして、それなりにシトリー領の一部を堪能しましたので、そろそろ本命のシリル様の別荘に伺いましょう」


 いつから別荘が本命に? と思わなくもないのだが、シリル様が研究室の存在を教えてくれてから、私の中でそうなった。


 魔法研究の専門の場所は憧れる。

 魔法は日々地道な研究が必要な分野でもあるのだ。

 私は行くことが出来なかったけれど、高等部を卒業したら大学部に入学する人もいる。

 ほんの少数だけれど。大学は魔術研究機関で特にニッチな魔術師達が集う場所である。


 実動隊ではなく、研究の専門家。

 毎日毎日魔法陣を見ていても飽きないという変人? ばかりが集うという噂。本当かな? 


 大学は王都と六大領都に一校ずつしかない。

 これらを王国七大学と呼び、それぞれに専門分野がある。

 エース領は経済学、黒の領地は工学など決められた単科大学。

 そして魔術大学は王都の王立魔術大学しかない。

 王都は王立。領都は領立になり、それぞれの領が必要としている専門知識を学ぶ。

 ちなみにセイヤーズ領は科学大学。

 王立も領立も学費が馬鹿高くて、庶民にはまったく縁が無いのが大学だ。


 私は伯爵令嬢だったが大学とは無縁だったし、第二王子の婚約者でもあったので、進学の話は露程も出なかったね。


 というか大学に行く令嬢は皆無だ。

 庶民も皆無。

 つまり裕福な貴族の変わり者という、限定された存在しか入学しない。


 令嬢が大学なんかに行ったら、行き遅れるわ。

 大学卒というだけで婚約者対象から外される。

 そうゆう場所です。



「シリル様、ちゃんと服は着ていますか?」

「着ているとも?」

「じゃあ、水の排水が終わったら、水分を分離して乾かしますからね? 無闇矢鱈に脱がないで下さいよ? この場にいる全員が困りますからね」


 私はしっかりと念を押した。

 脱ぐの駄目。


「ロレッタ以外は困らないと思うよ?」

「そんなことないですよ? ルーシュ様も影も皆困ります」

「そうかな?」

「そうですとも」


 そうだよね? 

 合ってるよね?

 裸駄目。


「君が見たいと言うから」

「一言も言ってませんよ?」

「そうだっけ?」

「そうです」


 私とシリル様がそんな遣り取りをしていると、どこからももなく「おい、変態」という声が聞こえた。

 いえ、直ぐ隣にいるルーシュ様ですけど。


「変態ってまさか僕のこと?」

「それ以外誰がいるんだ?」

「だって、僕は王子でそんな風に人に呼ばれたことないからね」

「そうか? 新鮮だろ」

「新鮮ではあるけども、嬉しくはない」

「婦女子の前で脱ぐのは変態だろ?」

「別に妻の前で脱ぐのは変態じゃない」

「そうだけども」

「そうだとも」

「でもロレッタはお前の妻じゃない」

「陰謀により来年辺り妻になりそうだ」

「フリだろ?」

「フリだけども。ワンチャンありでは?」

「なしだろ」

「まあ、なしだけども」

「分かってるなら脱ぐな」

「脱がないさ。嫌われたくないからね」

「理解していて助かるよ」

「それはどうも」


 ルーシュ様とシリル様は表情はお互い和やかにしているのだが、声色が……毒々しいというか、空々しいというか、色々差し合っているやつ。だよね?


「私の結婚を勝手に決めないで下さい。陰謀は回避するのが前提ですよ?」

「まあ、そうだけど」とシリル様。

「そうだな」とルーシュ様。


「それはそうと少しずつ排水しますね?」


 魔法研究所に行ってみたいですからね。

 ちょろちょろと排水しますよ?


 そう言ってから水底を見る。

 小川側の二カ所に切り込みを入れようかな?

 これが結構難しいのだ。


 弟三を追ってスラム街に行ったとき、一部結界を切る事が出来なくて苦労して以来、簡単なフォーマットを作っておいたのだ。大中小と三パターンだけ。

 小を試してみるのはどうだろう?

 失敗をしてもそんなに大事ない場面であるし、よい機会なのではないか? 

 そう思いながら、私は体内魔力を練ることに集中する。

 魔力量としてはそんなに大きくないのだが、作業が細かい。

 しかし念密なフォーマットを作り上げてあるので、魔法陣を新規に作ったり暗算しなくともよい。


 私は水底の揺らぎを見ながら脳内で魔法陣を検索し検出する。

 水ではなく光の魔術。

 光魔術は結界と結界の一部を書き換えるもの、そして魔力を糸化することしか出来ないが、この三つはしっかりと修得したつもり。


 魔術は一朝一夕には出来ない。

 何度も何度も紡いで感覚に落とし込む。

 寝起きでも発動させられるくらいが理想だ。


 私は脳内で構築した魔法陣を具現化しようとした瞬間息を飲んだ。

 私が見つめていた水の揺らぎの向こう。

 膨大な魔力を感知したのだ。


 え?

 水の中に?


 大型の魔法陣が形成され始める。

 もちろん私の光の魔法陣ではない。

 色が違う。

 出現した魔法陣の色は紫。

 言わずと知れた闇の魔導師の術。

 陣の模様は忘れもしない。


 そう私はつい最近、魔術師達が集うお茶会の庭というカフェで同じものを見たばかりだから。忘れる訳がない。脳裏に焼き付いて離れない。


 これは――転移。

 転移の大魔術。


 



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